第16話 ロレンツォ
触れたものが、少しだけ形を持ちます。
その夜。
神代を見送ったあと、そのままアトリエに残った。
長い一日だったと、遅れて気づく。
雨は上がり、
月が出ている。
祖母のことを思い出す。
紅を引き、人を寄せつけなかった人。
「ロレンツォさま……」
そう呼んでいたときの、あの瞳。
何を見ていたのか。
母屋には、誰も来ない。
静けさだけが、残る。
蔵から持ってきた植物の書を開く。
ページをめくる。
京の草花。
その中に、わずかに色の入ったものがあった。
指が、止まる。
蘭。
月の光が、その頁に落ちる。
ポケットの奥で、
かすかな光が揺れる。
翠は、目を閉じた。
息を整える。
そっと、絵に手を添える。
——音がする。
笛の音。
澄んだ、細い響き。
風が通る。
少女の気配。
輪郭だけが、そこにある。
温もりが、流れてくる。
そこで、目を開ける。
石の光が、まだ残っている。
ページをめくる。
ところどころに、書き込み。
漢字。
仮名。
読めない。
けれど、やわらかい筆跡だけが、残る。
指先で、なぞる。
空がひらける。
風。
頬に、触れる温度。
目の前に、
淡い髪と、緑の瞳。
声が、重なる。
「……リーベ……」
息が乱れる。
目を開けると、涙が、頬を伝っていた。
知っている。
その感覚だけが、残る。
もう一冊の書を開く。
ページの奥に、
——Lorenzo
その綴りが、あった。
翠は、動かない。
月の光が、静かに頁を照らしている。
もう、知らないままではいられない。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
まだ、すべては繋がっていない。




