第12話 知ろうとする場所
知ろうとします。
玄関の扉を開けると、ひんやりとした空気が流れ出た。
暗い。
御影石の床は、光を返すほど磨かれている。
一段上がった先も、柱も、床も、畳も、
何度も拭き上げられてきた気配が残っている。
正面に、花。
その奥に、屏風。
春の色と、静かな線。
香が、ゆるく漂っている。
翠は、しばらく立ったまま、そこを見ていた。
ここに、いた。
生まれてすぐに連れてこられ、八つになる前まで。
花を触った指先。
水を替えた重さ。
布で拭いた、木の感触。
身体の奥で、順にほどけていく。
「翠くん、突っ立ってんと、入り」
声に押されるように、足を進める。
奥の座敷。
神代はすでに、黒檀の机に向かっていた。
ノートパソコンの画面が、淡く光っている。
翠は、そのままお勝手へ回る。
茶器を出す。
湯を沸かす。
番茶を入れる。
手が、迷わない。
白い器に注ぎ、茶托に乗せ、小さな盆に整える。
香ばしい香りが、ゆっくり広がる。
神代のそばにひとつ置き、もうひとつを向かいに置いて、腰を下ろそうとしたとき、
「手慣れてんなぁ」
湯呑みに口をつける。
音が、少しだけ響いた。
「いただきます」
翠は、わずかに口元をゆるめた。
ここで、音を立てる人を、初めて見た。
視線が、ふと机の方へ落ちる。
画面に、文字。
――ロレンツォ
一瞬、息が止まる。
井戸の底で触れた気配が、かすかに重なる。
「あの……」
言葉が、少しだけ遅れる。
「なんや」
視線を上げないまま、返ってくる。
「ロレンツォって……誰ですか」
間があく。
神代は、少しだけ手を止める。
「……聞いてへんのか」
それ以上は続けない。
代わりに、茶をひと口含む。
「ここ、よう残ってるやろ」
唐突に、そう言った。
翠は、少しだけ戸惑う。
「……はい」
「そういう場所って、だいたい何かあるねん」
軽く言う。
「......残ってるだけのやつ」
言い切らない。
「……そのひとつ、やろな」
それ以上は、踏み込まない。
翠は、しばらく黙っていた。
胸の奥に、さっきの感覚が残っている。
井戸の底。
伸びる手。
重なる声。
そして――
「……これ」
ポケットに触れる。
布に包んだまま、机の上に置く。
神代は、ちらりと見る。
手は伸ばさない。
「……触ってええ?」
翠は、頷く。
布越しに、そっと持ち上げる。
少しだけ、重さを確かめる。
「……閉じてるな」
小さく言う。
断定ではない。
「開けん方がええやつや」
それだけ。
翠は、静かに息を吐いた。
神代は、湯呑みを差し出す。
「もう一杯、いただこかな」
翠は、頷く。
立ち上がる。
足取りが、さっきより軽い。
ロレンツォ。
翠は、小さく息を吸った。
まだ、言葉にはしない。
けれど、
知ろうとしている自分に、気づいていた。
もう、目を逸らさない。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
まだ、閉じたままです。




