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第11話 底に触れて

底に触れます。


井戸に、そっと触れる。


縁から中を覗き込む。


思っていたより、底が見える。

乾いた筒のように、まっすぐ下へ続いている。


できるだけ、何も考えないようにする。


そのとき、ふと、柑橘の香りがよぎった。

さっきの、八朔。


わずかに、息がゆるむ。


縁に手をかけ、ロープに触れる。

少しだけ、力を込める。


身体を預けて、ゆっくりと降りていく。


石壁が近い。


同じ大きさの石が、丁寧に積まれている。

古いものだと、触れなくてもわかる。


途中で一度、見上げると、

円く切り取られた空がある。


落ちる場所ではない。


そう思った瞬間、

足が、底に触れた。


静かだ。

乾いた空気の中に、わずかに人の気配。


帆布のトートが、壁際に置かれている。

ノートとカメラが、そこにある。

あの男のものだろう。


翠は、小さく息を吐いた。


そして、右手で、そっと石壁に触れる。


――視界が落ちる。


立っているのに、落ちている。

身体の感覚だけが、下へ引かれていく。


重なる声。


遠いところから、何かが伸びてくる。


何百年も、続いている手。


叫び。


それに重なるように、

幼い自分が、上へ手を伸ばしている。


届かないまま、何度も。


息が、うまくできない。


――大丈夫か。


声が混じる。


――目、開けろ。


落ちていた感覚が、ほどける。


視界が戻る。


目の前に、あの男がいた。


「……戻ってきたな」


低く言う。


翠は、言葉が出ないまま、息を整える。


「急に落ちるやろ、ここ」


軽く笑うでもなく、ただそう言った。


ポケットのあたりを指す。


「それ、さっきから光ってるで」


翠は、遅れて気づく。

布越しに、かすかな光。


そっと触れる。


翡翠。


熱を持っているように感じる。


「……一回、上あがろ」


神代はそれ以上何も言わず、ロープに手をかけた。


外の空気が近づいてくる。


地上に戻ると、光が少し強い。


小さなカップを差し出される。


「飲める?」


頷く。


口に含むと、やわらかい香りが広がり、

その温度が身体に落ちてくる。


「落ち着いた?」


翠は、静かに息を吐いた。

さっきまでの感覚が、完全には消えていない。


それでも、

ひとりではない。


神代は、少しだけ翡翠を見る。


「……それ、あんまり開けん方が よさそうやね」


断定はしない。

ただ、そう言った。


風が通る。

西の空が、ゆっくり色を変えていく。


「今日、どうする?」


神代は、視線を外したまま言う。


「ここ、泊まれるけど」


軽い口調のまま。


翠は、少しだけ考える。

怖さは、消えていない。


でも、さっきの底に、

もう一度ひとりで戻る気もしなかった。


「……泊まります」


言ってから、自分で少し驚く。

なぜか、警戒がない。


神代は頷く。


「じゃ、行こか」


それだけ言って、先に歩き出す。


翠は、その背中を見てから、

一歩、後を追った。


風が、もう一度だけ、井戸の中へ落ちていった。


落ち切らないまま、息が戻る。


ここまで読んでくださって、ありがとうございます。

まだ、消えていない。

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