第10話 風の手前で
現実に引き戻されます。
まだ降りていない場所に、呼吸だけが届く
額に鈍い痛みを感じながら、
翠は、視界にひらけた光を見た。
花々が揺れている。
風が通り抜けて、空が遠い。
やわらかい感覚だけが残る。
「大丈夫か?」
声が落ちてきた。
顔を上げると、
黒縁の眼鏡の男が、ひとつ、八朔を差し出していた。
「あ……はい」
気づけば受け取っている。
手の中に、わずかな重みと、
ほのかな香り。
「こんなとこまで来る人、あんまりおらんけど」
少しだけ間を置いて、
「……例外もおるけどな」
男はそう言って、軽く手を合わせた。
「九条の人やね」
「あ……はい」
言い切らないまま、視線が外れる。
「食べ。こういうとこ、ビタミン要るで」
気づけば隣で、男は自分の八朔を剥いている。
迷いのない手つきで、そのまま一房、口に入れた。
翠は、ふと気づく。
ここまで、何も口にしていなかった。
「あの……これ、よかったら」
バッグから取り出したクロワッサンを、そっと差し出す。
「ええん? ありがとう」
受け取って、少しだけ匂いを確かめる。
「バター、ええ匂いやね」
翠も、パン・オ・ショコラをひと口。
甘さが、静かに広がる。
それから、八朔の皮を剥く。
指先に、香りが立つ。
深く息を吸う。
光と、空気と、混ざる。
「ええやろ。ちょうど今くらいが、一番うまい」
男はそう言って、井戸の方を一度だけ見た。
「……神代透です」
名刺を差し出す。
白地に、細い文字。
肩書きは目に入る。
すぐに視線を戻す。
「翠です」
「さっき、上から覗いてたやろ」
軽く笑う。
「ここ、よう残っとるよね」
その言い方は、どこか曖昧で、
でも否定もしない。
「……井戸に、何かあるん?」
翠は、少しだけ考える。
「忘れ物、みたいなものです」
言葉にすると、
胸の奥に風が通った。
「……そう」
神代は、それ以上は聞かなかった。
少しだけ間があって、
「暗くなる前に、行っといで」
井戸を指す。
「水はない。足場もある」
それだけ言って、
もう一度、八朔を口に運んだ。
「ロープ、使ってええよ。あとで戻してくれたらええし」
「ありがとう」
翠は、小さく頷いて、井戸へ向かう。
足元で、風がひとつ、落ちた。
まだ、降りていない。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
まだ、重なっていない。




