第9話 井戸の縁にて
触れた先で、何かがずれます。
出発してから、三時間近くが経っていた。
電車を乗り継ぎ、ケーブルカーに乗った頃には、空はすっかり青く開けていた。
観光客が溢れ、あちこちで写真を取り合う声が重なる。
そのざわめきが、奥に残っているはずの記憶を、少しずつぼかしていく。
翠は、自分の幼い頃の感覚だけを頼りに、奥の院を越えていく。
さらに奥。
結界の、向こう側。
祖母の喪が明けるまでは、行場に入る者はいない。
それでも、道は消えていなかった。
雨のあとでぬかるんだ土に足を取られながらも、翠は迷いなく進んでいく。
足が選んでいる。
八歳になる前まで、この場所にいた。
景色は、ほとんど変わっていない。
それでも、見え方だけが違っている。
やがて、かすかに音が混じる。
チリン、チリンと、小さな鈴の音。
行をする者にだけ聞こえる音。
その記憶が、遅れて浮かぶ。
音を頼りに進むと、少しだけ開けた場所に出る。
木々の間に、数寄屋造りの家屋が現れる。
思っていたより、小さい。
自分が、大きくなったのか。
翠は、無意識に左耳へ触れる。
触れた理由はわからないまま、指先だけがすぐに離れる。
裏手へ回る。
そこに、井戸があった。
白い砂利が、隅まで掃き清められている。
踏み出すたび、ジャク、ジャクと乾いた音が返る。
母の日記にあったスケッチ。
あの線が、ここに重なる。
ロレンツォの名の横に、描かれていた場所。
翠は、井戸の前で足を止める。
近づけるのか。
触れてもいいのか。
わずかな迷いが、身体の内側に残る。
そのとき、ふと色が浮かぶ。
祖母の色紙に描かれていた、牡丹の紅。
——しっかり稽古しなはれ
——気張りなはれ
声が、遠くから重なる。
翠は、ゆっくりと一歩踏み出す。
石に手を置き、井戸の縁へと身を寄せる。
そのまま、そっと覗き込む。
その瞬間。
鈍い音が、額に落ちる。
「……っ」
一拍遅れて、痛みが来る。
反射的に額を押さえながら、視線を上げる。
翠は、何が起こったのか、一瞬わからない。
「……なんだ?」
視界が、わずかに揺れる。
——誰だ。
そのまま、動けない。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
わからないまま、残っています。




