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第8話 触れかけた底

触れてしまった。


戻ったはずなのに

もう、戻らない。


ツツジの香りが、ふと流れてくる。


どこかで嗅いだことのある匂い。

思い出しかけて、言葉になる前に消える。


意識が、わずかに揺れる。


視線が、翡翠へ落ちる。


手のひらに収まるには少し大きい、重さのある石をしばらく見つめたあと、

翠はそっと指を伸ばした。


触れる。


その瞬間、空気が変わる。


足元の感覚がわずかにずれ、立っているはずなのに、どこかが安定しない。

息が浅くなり、吸っているはずの空気が胸の奥で引っかかる。


視界が、ほんの少し暗くなる。


落ちていない。


それでも、下へ引かれているような感覚だけが続く。

底が遠く、どこまでも届かない場所に、意識だけが触れかけている。


息が続かない。


身体が、ついていかない。


一歩踏み出そうとして力が入らず、そのままよろける。


手が、何かに触れる。

紙の感触。


日記だった。


触れた瞬間、指先に別の温度が戻る。


さっきまで引っかかっていた息が、ひとつだけ奥まで落ちる。

まだ完全ではない。

それでも、戻り始めている。


ページの隙間に、何かが挟まっている。


茶色く乾いた、押し葉だった。


そっと指をかけ、崩れないようにゆっくりと引き抜く。

思っていたよりも軽く、そのまま手のひらに収まる。


歪んだ形。


どこかで見たことがある。


葉脈が、かすかに残っている。

指先でなぞると、その感触だけがはっきりと浮かぶ。


この形——


菩提樹。


そんな名が浮かびかけて、指の間ですり抜ける。


その瞬間、

何かが、すぐそばに触れる。

音でも、言葉でもない。


ただ、気配だけが落ちてくる。


息が、ひとつ深く入る。


さっきまで身体を引き下げていたものが、ゆっくりとほどけていく。

理由はない。


それでも、身体だけが戻ってくる。


しばらく、そのまま動かない。

やがて視線が時計へ向く。


11時半。


日暮れまでは、まだ間に合う。


考えるより先に、身体が動く。

立ち上がる。


向かう場所は、もう決まっていた。


鞍馬山の、さらに奥。

九条家の古い行場。


その気配だけが、静かに浮かんでいる。


翠は何も言わない。

ただ、そのまま歩き出す。


もう、止まらない。


ここまで読んでくださって、ありがとうございます。


もう、元には戻らない。

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