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第7話 残された記録 

重ならないまま、残っているものに触れていきます。


朝の光が、ゆっくりと差し込んでくる。


窓を開けたままにしていたのか、部屋の空気はすでに変わっている。

今日は、少し風がある。


わずかに湿度を含んだ、花の甘い香りが部屋に流れている。


すいは、その匂いを静かに吸い込んだ。


しばらく何もせず、ただ光の動きを目で追っている。


やがて、視線が手元の日記へと落ちる。

深い赤の革の表紙。


開くと、葉が一枚、挟まれていた。

触れた瞬間、どこか遠くで、落ち葉を踏む音がかすかに重なる。


乾いたページをめくる。

短い言葉と、小さな絵。


花のようにも、空のようにも見える。

森の一部のようでもある。


線は多くないのに、奥行きだけが残っている。


ページをめくると、ドイツ語が並ぶ。


意味は追わない。

音だけが、先に残る。


さらにめくるうちに、重なる。


どこかで見た景色。

静かな山。

夜、暖炉の火だけが赤く残っている。


思い出そうとして、途中で止まる。


届ききらないまま、指だけが先に進んでいく。

ページの端に、小さな文字があった。


——Lorenzo


その綴りだけが、なぜかはっきりと浮いて見える。


一度、指が止まる。


何かが繋がりかけて、まだ形にならない。


次のページには、紙切れのようなものが挟まれていた。

走り書き。日本語か、漢字のようにも見える。


それ以上は追わず、そのまま日記を閉じる。


今は、考えない。


視線を奥のピアノへ向け、ゆっくりと立ち上がる。


蓋には、白い埃が薄く積もっていた。

触れ、わずかにためらってから、ゆっくりと開ける。


鍵盤に指を置く。


目を閉じると、大きな木の下に立っている。

木漏れ日の隙間から、青い空が見える。


そのまま、音を落とす。


ひとつ。


空気の中に、静かに広がる。


その光に手を伸ばすように、次の音を続ける。


繋がらないまま音が並び、

まとまりかけては、またほどけていく。


長く触れられていなかった音が、

空気の中に少しだけずれたまま残っている。


ひとつだけ、思った場所に落ちない音がある。

触れたはずの響きと、ほんのわずかに重ならない。


掴めるはずだった形が、崩れる。


左の指が、ゆっくりと動き出す。

考えていないのに、流れだけが生まれていく。


窓から風が入り、音がわずかに揺れる。

その揺れに合わせて、右の指が自然に動く。


さっき見た線と、どこか似ている。

形にはならないまま、続く。


やがて、どこかで止まる。


そのまま手を離すと、静けさだけが残った。

その奥で、ほんのわずかに気配が揺れる。


振り向く。


包んだままの翡翠が、そこにあった。


光の加減かもしれない。


それでも一瞬だけ、内側から淡く返したように見える。


見間違いかもしれない、と思いながらも、

視線だけがそこから離れない。


翠は、しばらくそのまま耳を澄ませる。


何かが、聴こえかけている。


音の残りと、光の揺れだけが、まだそこにあった。


まだ、重ならない。


ここまで読んでくださって、ありがとうございます。


まだ、重ならないまま残っている。

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