第6話 ひとつ手前の距離
触れる前で、止まる。
枯山水の庭の奥に、その蔵はあった。
白砂と石が静かに整えられた先で、影のように佇んでいる。
他の建物とは、時間の流れがわずかにずれているようだった。
そこだけが、古いまま残されているように見える。
かなり昔のものらしい。
江戸の頃、と聞いた気がする。
鍵を差し込むと、思いの外あっさりと回った。
重い扉を引く。
ひやりとした空気が、遅れて外へ流れ出る。
そのまま中へ入る。
入口脇の古びたスイッチを押すと、
裸電球がわずかに遅れて灯り、橙色の光がゆっくりと広がっていった。
埃の匂い。
時間が、そこだけ止まったままのように感じられる。
壁際には段ボールがいくつも積まれている。
そのひとつに、見覚えのある字があった。
——詠埜
母のものだった。
手を伸ばし、箱を開ける。
楽譜、小物、本。
その中に、赤い革の背表紙が混じっている。
取り出す。
日記のようだった。
ページをめくると、短い文章の横に、小さな絵が添えられている。
絵日記。
指先で、紙の端をなぞる。
いくつか気になるものはあったが、
とりあえず二箱ほど抱え、外へ運び出した。
空気が、少しだけほどける。
蔵を出て、扉に手をかける。
そのとき、奥の暗がりで、何かがわずかに返った。
反射のように、ほんの一瞬だけ揺らぐ。
手が止まる。
もう一度、確かめるように振り返り、
そのまま中へ戻った。
さっきよりも、空気がわずかに重い気がする。
奥へと歩く。
光は、消えずに残っている。
目を凝らすと、そこに石があった。
不揃いで、磨かれてもいない塊。
それでも、どこかで光を含んでいるように見える。
——翡翠。
そう思った瞬間から、視線が外れなくなる。
近づく。
触れる距離まで来て、指先が止まる。
息が、ひとつだけ浅くなる。
触れれば何かが変わる、というより、
すでに何かが揺れている。
それでも、まだ触れない。
指先が、わずかに空気をなぞる。
その距離だけが、残る。
やがて手を引き、そばにあった風呂敷を取り上げると、
布越しにそっと包む。
直接触れてはいない。
それでも、何かが指先に残っている気がした。
言葉にはならないまま、それだけが内側へ沈んでいく。
蔵を出ると、風が通っていた。
雨の名残を含んだ木々が、静かに揺れている。
母屋には戻らず、そのまま別棟へ向かう。
アトリエの扉を開けると、閉じていた空気がわずかに動いた。
窓を開ける。
風が入る。
奥に、ピアノが置かれている。
その気配を感じながら、ソファに腰を下ろす。
手の中に残っていた日記を開く。
まだ、読むつもりはなかった。
ただ、そばに置いておきたかった。
まだ、触れない。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
まだ、触れていない。




