第5話 色にいでけれ
残っていたものが、かすかに形を持ち始めます。
雨の音が、止んでいた。
どれくらい眠っていたのか、わからない。
翠は、そっと瞼を開く。
部屋はすでに暗く、ぼんやりと天井を見つめたまま動かなかった。
呼吸が、少しずつ落ち着いていく。
こうして、ただ上を見ている時間が、昔にもあった気がする。
やがて、ゆっくりと身体を起こす。
文机が並んでいる。
祖父母の弟子たちが、いつもこの部屋に溢れていた。
——自分が座っていた場所。
そこに、紙が置かれている。
少しだけ、色が違って見えた。
わずかに浮いているようにも見える。
近づく。
色紙だった。
筆の跡が、やわらかく残っている。
花の絵。
牡丹。
その横に、歌が添えられている。
翠は、それを目で追う。
意味は、すぐには入ってこない。
ただ、音のように、言葉の流れだけが内側に残る。
——人知れず 思ふ心は 深見草
花咲きてこそ 色にいでけれ 翠へ
しばらく、そのまま立っていた。
胸の奥で、何かがわずかに動く。
それが何なのかは、まだ掴めない。
ただ、完全に空ではない感触だけが残る。
この花——祖母が、よく見ていた。
そう思ったあとで、
なぜ覚えているのか、わずかに引っかかる。
最後の文字を、じっと見つめる。
やがて、視線が落ちる。
ポケットの中に、鍵がある。
父から渡されたもの。
取り出す。
小さく、重い。
指の中で、わずかに冷たさが残る。
しばらく、それを見ている。
触れないまま。
それでも、目を逸らせなかった。
やがて、指を閉じる。
握る。
その瞬間、
時間の層が、わずかにずれる。
音が、ひとつ遅れる。
匂いが、重なる。
知らないはずの手の感触。
重み。
熱。
何かが、そこにあった気がする。
言葉にならないままのものが、
触れた指先から、ゆっくりと内側へ滲み込んでくる。
翠は、息を止める。
離せない。
怖くは、なかった。
ただ、引き返せるのかどうか、
わずかにわからなくなる。
ゆっくりと、息を吐く。
鍵を、見下ろす。
それは変わらない。
ただの、小さな鍵。
それでも、その向こうに、何かがある。
視線を上げる。
——花咲きてこそ 色にいでけれ 翠へ
その一行が、さっきとは違う響きで残る。
胸の奥で、かすかに輪郭を持ち始める。
——行こう。
声には出さない。
ただ、その気配だけが残る。
鍵を、少しだけ強く握る。
外では、また雨の音が戻ってきていた。
もう、戻らない。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
まだ、はっきりとは見えない。




