第4話 名残の家
触れたものが、少しだけやわらぐ。
嵐電に揺られて、移動している。
車内は静かだった。
雨に濡れた窓が、外の景色をぼかしている。
流れていく町並みが、どこか現実から少しずれて見える。
翠は、ただ座っていた。
音だけが、続いている。
家は、変わらずそこにあった。
戸を開ける。
空気が、わずかに動く。
古い匂い。
けれど、淀んではいない。
閉じきっていない気配だけが、残っている。
上がる。
小さな間。
屏風が立っている。
墨の濃淡で、揺れるように描かれた小さな鯉のぼり。
その前に、つつじ。
紅が、静かに置かれている。
風がわずかに通る。
甘い匂いが、遅れてかすめる。
何かが、よぎる。
足を進める。
畳が、静かに沈む。
文机が並び、その向こうに縁側がある。
雨に濡れた庭が、やわらかく光っている。
屋根の向こうで、雨の音が続いていた。
翠は、そのまま座敷に横になる。
音の中に、身体がゆっくり沈んでいく。
その奥で、別の匂いが立ち上がる。
少し軽い。
湯気のように、やわらかい。
——ここだ、とどこかで思う。
小さな電車に揺られて、そこへ向かっている。
窓の外は、ゆっくりと光に満ちている。
目を開ける。
そこには、もう雨はない。
代わりに、朝の光が落ちている。
低い位置から、庭が見える。
鳩の声。
ホッホロー、と、ゆるやかに続く。
風が通る。
わずかに、あたたかい。
畳の感触が、はっきりと伝わってくる。
火鉢の上に、鉄のヤカンがかかっている。
細い湯気が、まっすぐに上がっている。
白い器に、茶が注がれる。
差し出される。
受け取る。
わずかに熱が残る。
口に含む。
苦みが、ゆっくり広がる。
そのわずかな反応に、笑い声が落ちる。
振り向く。
そこに、あの人がいる。
「……よろしおすなぁ」
やわらかく、ほどけるような声。
意味はわからない。
それでも、その響きだけが残る。
外へ出る。
庭に、光が落ちている。
草花が、低い位置で揺れている。
手が伸びる。
花がひとつ、摘まれる。
それが、こちらに渡される。
触れる。
やわらかい。
「今日の花、見てはるんどすぇ?」
問いかけ。
答えられないまま、見る。
色。
形。
揺れ。
あの人は、ゆっくり頷く。
「....ほんま、えぇ色してはりますなぁ」
そのまま、座敷へ戻る。
文机が並んでいる。
硯に、水が落ちる。
墨をする音。
シャク、シャク、と乾いた音が続く。
その音が、一定のまま空気に溶けていく。
翠は、黙ってそれを見ている。
ふと、視線が合う。
「今、何見てはるん?」
間。
「……歌にしてみよし」
筆を持たされる。
紙に触れる。
少し迷う。
それでも、ひとつ線を引く。
形にはならない。
ただの線が残る。
あの人は、それを見て、ゆっくり笑う。
「……ちゃんと、うとたはります」
その言葉が、静かに落ちる。
音のように、残る。
——ふっと、戻る。
暗い天井。
雨の音。
動かない香の匂い。
翠は、しばらく動かない。
呼吸だけが、ゆっくりと続く。
さっきまでの空気が、まだ少し残っている。
消えたわけではない。
ただ、ここに留まらなかった。
まだ、ここにはない。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
消えずに、移っていく。




