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第3話  空白の中 

意味は来ないまま、名だけが残る。


気づけば、葬儀は終わっていた。


雨は、朝から途切れずに降っている。

細い粒が地面に触れるたび、音はすぐに吸い込まれ、ほとんど残らない。

世界の輪郭だけが、少し遠くへ引いている。


黒い服が、重い。

布が肌に触れるたび、わずかに呼吸が浅くなる。

慣れないというより、身体のどこかが拒んでいるようだった。


人はいた。

言葉も、交わされていた。


それでも、その意味はうまく届いてこない。

動きだけが、静かに続いていた。


時間の感覚が、曖昧になる。


気づけば、部屋の中に残っているのは数人だけだった。


香の匂いが、静かに満ちている。

翠は、そのまま立っている。

誰にも促されていないのに、そこにいた。


祖母の前だった。


煙が、細く上がっている。


手を伸ばす。

灰に触れ、香を落とす。

ゆっくりと、煙が立ち上る。

手を合わせる。


何も浮かばない。


祖母の顔も、死も、そこには来ない。

それを、どこかで当然のことのように受けている自分がいる。


ただ、ひとつだけ、言葉が残っている。


——ロレンツォ様


それだけが、場違いなほどはっきりと、内側に留まっていた。

他のものは、何も来ない。


ただ、その名に重なる像が、ひとつだけある。

見覚えのある顔だった。

どこで見たのか、すぐには思い出せないまま残る。

それでも、あの目だけは確かに知っている。


緑の目。


夢の中で、見た。


ウィーンの、あの夜。

途切れたまま醒めた像の中にいた、あの男。

自分に似ている、と、その時も思った。


祖母が見たものも、同じなのだろうか。


指を離す。

静けさが、少しだけ深くなる。


外へ出ると、まだ雨が降っていた。


軒の下に入る。

濡れた空気が、少しだけ近くに戻ってくる。


父が立っている。

しばらく、何も言わない。

視線だけが、静かにこちらを見ている。


「無理はしなくていい」


短く、それだけ言う。


そのまま、小さな鍵を差し出す。


受け取る。


金属が、ひやりと冷たい。

その感触だけが、妙に現実に近い。


「蔵だ。……母のものが、残っている」


言葉のあとに、わずかな間が落ちる。


翠は、鍵を見下ろす。

母のもの。

それだけなら、ただの遺品のはずだった。

けれど、そうは思えない。


祖母の声。

ロレンツォという名。

記憶の中の、古い時代の気配。

そして、夢に現れた、自分によく似た男。


ばらばらのものだったはずなのに、どこかで静かにつながっている。

その先が、蔵の中に沈んでいる気がした。


「先に戻る」


それだけを残して、父は視線を外す。


翠は、まだ動かない。

鍵を握る手に、冷たさが残っている。

雨の音が、少しだけ輪郭を取り戻す。


それでも、まだ遠い。


空白の中に、ひとつだけ残った名と、

掌の中の小さな重みだけが、確かだった。


名だけが、残る。


ここまで読んでくださって、ありがとうございます。


そのまま、残っています。

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