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第2話 名残の間

触れた瞬間、別のものが流れ込む。


父にそっと手を取られたまま、進む。


鳥が鳴く。

一度だけ高く響いて、すぐに遠ざかる。


思わず、視線が上へ動く。

空は見えない。

それでも、わずかな光が瞳の奥に残る。


すいはそのまま、玄関へ向かう。


戸をくぐると、音が途切れる。

ひやりとした空気が肌に触れ、遅れて香の匂いが満ちてくる。


暗い。


目が、すぐには慣れない。


一歩、上がると、そこに小さな間がある。

三畳ほどの控えの空間に、屏風が立てられていた。


墨で描かれた山と水。

その中に、ひとつだけ色がある。


桃の花。


そこだけ線が違う。

後から触れられたように、わずかに浮いている気がした。


翠は足を止める。


視線が引かれる。

なぜか、懐かしい。

理由は、わからない。


「翠」


父の声で、意識が戻る。


振り向く。


何も言われない。

ただ、先を示される。


廊下へ入ると、香の匂いが、ゆっくりと濃くなる。

奥へ進むほど、静けさが沈んでいく。


ひとつの襖の前で、父が止まる。

翠も足を止める。


中に、いる。


その気配だけが、はっきりと伝わる。


父が静かに襖に手をかける。


開く。


部屋は暗く、外の光が細く差し込んでいる。


布団の上に、祖母が横たわっていた。

息が荒く、浅く、途切れそうに続いている。


翠は、ゆっくりと近づく。

顔が見える位置で、止まる。


皮膚は薄く、骨の形がそのまま浮いている。

触れれば崩れそうな、乾いたままの気配。


手を伸ばす。


触れるまでのわずかな距離が、静かに引き延ばされていく。


指先が、かすかに触れる。


その瞬間、祖母の目が開く。


翠を見る。

——違うものを見ている。


唇が、わずかに動く。


「……ロレンツォ、様……」


手を、強く握られる。

その力だけが、はっきりしている。


次の瞬間、視界が揺れる。

音が消え、別の像が流れ込む。


若い女。

その向こうに、見知らぬ男が立っている。


緑の目。

風が吹き、山の匂いが混じる。


声が、何かを呼んでいる。


触れようとして——切れる。


翠は息を吸う。

視界が戻る。


祖母の手が、少しだけ緩む。

視線がほどけ、そのまま静かに落ちていく。


呼吸が、止まり、音が、なくなる。


父が何かを言う。


聞こえない。

翠は動かない。


握られていた手の感触だけが残り、それがゆっくりと離れていく。


——終わった。


まだ、消えていない。


ここまで読んでくださって、ありがとうございます。

触れたものが、静かに残ります。

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