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第30話 賛歌

ウィーン編、

クライマックスの余韻から、物語は静かな朝へ入ります。


今話は、夜の熱が音へ、そして祈りへ変わっていく回です。

この物語のタイトルが生まれる、大切な一話でもあります。



鳥の囀りが、遠くから少しずつ近づいてくる。

木漏れ日のようなやわらかな光が、瞼の裏をそっと撫でていた。


まどろみの中、意識だけがゆっくりと浮かび上がってくる。


翠は、そっと目を開く。


薄い朝の光が、静かに部屋へ入り込んでいる。


――朝?


しんとした空間の静けさが、ようやく現実を連れてくる。


身体にはまだ夜の余韻が深く残っていて、どこまでが夜で、どこからが朝なのか、その境界さえ曖昧になっている。


隣では、エリーが深く眠っていた。


乱れたシーツの皺も、まだ残る体温も、すべてがさっきまでの時間を静かに物語っている。


すいはしばらくそのまま座ったまま、その寝顔を見つめていた。

呼吸だけが、ゆっくりと規則正しく続いている。

それが、ひどく愛おしかった。


やがて、そっと立ち上がる。

眠るエリーを起こさないように、静かに玄関ホールへ向かう。


高い天井の下に置かれたベーゼンドルファーが、夜の薄い光を受けて、深い黒をたたえていた。


その前に腰を下ろし、ゆっくりと手を鍵盤へ伸ばす。


触れる寸前、ふと右手が視界に入る。


薬指の、小さな黒子のすぐそばに、まだ淡く残るキスマーク。

まるで、そこにだけ見えない指輪が残されているようだった。


思わず、その指先をそっと胸元へあてる。

そこに残る熱を、失わないように。


ゆっくりと息を整え、再び指を鍵盤へ置く。

ベーゼンドルファーの音は、どこか森の奥に触れているようだった。


樹齢百年を超える木々の中から選び抜かれ、長い年月をかけて乾かされ、ようやく一台の楽器として息づいた音。

だからこそ、ひとつの音を鳴らすたび、遠い森の気配がやわらかく立ち上がる。


翠は、その音の中へ、エリーと過ごした日々をひとつずつ置いていく。


夜の熱。

重なった呼吸。

触れた指先。

眠る横顔。


そのすべてを、宝物をそっと包み込むように、一音ずつ、エリーへ捧げていく。


エリーと出会ったのは、ただの偶然ではなかった。


音を通して、もっとずっと手前で、すでに魂は触れ合っていたのではないか。

恋愛という言葉だけでは到底足りない、もっと深い場所で結ばれている感覚。

だからこそ、いまこの音に込めるのは、ただ夜の余韻だけではない。

それは、エリーという存在、その魂そのものへ捧げる、静かな賛歌だった。

夜の愛が、朝には祈りへ変わっていく。


翠は一音ずつ、まるで誓いを刻むように鍵盤へ置いていく。

途切れそうで、けれど確かに次の音へ繋がっていく旋律。

いくつもの断片が、静かに重なっていく。


さっきまで重なっていた呼吸の余韻が、そのまま音へと変わっていくようだった。

甘さも、熱も、まだ指先に残っている。


やがて音が途切れる。


指先が鍵盤の上で止まり、そのまましばらく動かない。


やがて、翠は息に溶けるほど小さな声で、誰にも届かない言葉をそっと残した。


ようやく録音を止めると、画面にはいくつものデータが並んでいた。


翠はひとつずつ再生しながら、気に入ったものへ番号を振っていく。


十曲。


それだけを選ぶ。


机の上の紙へ、番号と、少し考えてから、走り書きで題名を残す。


森の瞳と虹の聲


その文字を見つめ、翠は小さく息を吐く。


まだ、意味のすべてを言葉にする必要はない。

きっと、彼なら、いつか辿り着く。


すべてを終えたあと、静かにエリーのもとへ戻る。


眠っている。

変わらず、深く。


翠はほんの少しだけ躊躇い、それでもゆっくりと身をかがめた。


額にそっと唇を重ねる。


ほんのわずかな時間なのに、離れがたい。

起こしてしまうかもしれない。

それでも、どうしても離れられなかった。


やがて、ゆっくりと身を起こす。


振り返らない。


扉へ向かい、静かに開け、そのまま音もなく閉じる。


部屋には、ほとんど何も残らない。


ただ、温度だけが、まだそこにあった。


しばらくして、エリーの瞼がわずかに開く。


完全に意識が戻ったわけではない。

それでも、額に残る温度と、触れられていた唇の感触だけが、ひどく鮮明に残っていた。


追えば、まだ間に合う。

それは分かっている。


けれど、エリーは身体を起こさない。

ただ、静かに手を伸ばし、机の上に置かれた携帯へ触れる。


再生する。


音が流れ出す。

さっきまでの時間の残響。


断片だったはずの旋律が、いまははっきりと形を持って耳へ届く。


エリーは、その音を追うように、迷いなく番号を書き留めていく。

ひとつずつ。

やがて、その手が静かに止まる。


並んだ数字へ視線を落とした、その隣に、一枚のメモが置かれていることに気づく。


翠の字だった。


そこには、番号とともに、日本語らしい走り書きで題名が残されている。


森の瞳と虹の聲


そこに並ぶ番号は、自分が今選んだものと、ぴたりと重なっている。


エリーは何も言わない。

ただ、そのまま見つめていた。


音だけが、まだ静かに続いている。

その一致が、偶然ではないことだけを、深く理解しながら。


その傍らで、まだ誰にも触れられていない音が、ひとつだけ静かに残されていた。


——つづく


ここまで読んでくださって、ありがとうございます。


第30話は、愛の余韻がそのまま音楽へ昇華される回でした。

夜の熱が、朝には祈りと作品へ変わっていく。

シーズン2のひとつの核を書きたかった回です。


明日はいよいよシーズン2 最終回です。


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