第31話 虹の聲
ウィーン編、いよいよ最終話です。
ここまで積み重ねてきた音と想いが、
静かな夜の中でひとつの形になります。
この物語のタイトルへと繋がる、大切な終幕の一話です。
どうぞ最後まで、静かな余韻とともにお読みいただけたら嬉しいです。
ウィーンに戻ってから、時間はようやく静かな流れを取り戻し始めていた。
邸宅には、変わらない人の気配がある。
執事たちの控えめな足音、整然と積み上げられた書類、静かに開閉される扉の音。
その一つひとつが、長いあいだ止まっていた時間を、現実の側へと少しずつ引き戻していくようだった。
エリーは、それらをひとつずつ手に取っていく。
まだ完全に慣れたとは言えない。
けれど、もう目を逸らすことはしなかった。
必要な言葉だけを選び、必要な署名だけを残し、必要な時間だけをこの場所に置いていく。
夜になると、ようやく静けさが本来の形で戻ってくる。
そのわずかな時間だけ、ギターに触れる。
短い旋律。
数小節にも満たない音。
それでも、いまの彼にはそれで十分だった。
数日が過ぎたある夜、ふと手元の携帯に見慣れない通知が残っていることに気づく。
何気なく画面を開いた、その瞬間だった。
静かなピアノの音が、夜気に溶けるように流れ出す。
エリーの呼吸が、そこでわずかに止まる。
日付を見る。
あの日だった。
それ以上は考えないまま、ただ音だけを追う。
整いきってはいない。
途切れそうで、けれど確かに次の音へと繋がっていく。
迷いも、ためらいも、そのまま残されている。
完成していないはずなのに、不思議なほど、どこかへ向かっていることだけは伝わってくる。
言葉にできないまま、確かに続いている音だった。
エリーはゆっくりと目を閉じる。
表情はほとんど変わらない。
ただ、呼吸だけが少し深くなる。
やがて、唐突に音が途切れる。
静寂が戻った、と思ったその瞬間、わずかな息遣いが残る。
それから、翠の声が、ひどく近い距離で落ちた。
「……エリー、この先は、君に」
それだけだった。
短いのに、音よりも深く胸に残る。
夜の静寂が、そのまま部屋に戻ってくる。
エリーはしばらく動かなかった。
画面に残る波形を見つめたまま、ゆっくりと携帯を持ち上げる。
エリーは、携帯をそっと掌に包み込む。
そのまま、残された翠の声へ触れるように、静かに唇を寄せた。
「……翠」
名を呼んだ声だけが、夜の静けさに長く残った。
やがて、机の上に置かれた一枚のメモへ視線が止まる。
翠の筆跡だった。
そこには、日本語で静かに題名だけが残されている。
森の瞳と虹の聲
その下に、エリー自身の手で書き加えたフランス語の題名が並んでいる。
La voix entre l’ombre et la lumière
そのときは、ただ感覚に導かれるまま書き足しただけだった。
けれど今、録音の残響の奥で、遠い少年の透明な響きと、現在の低く掠れた声が、ひとつの流れとして静かに重なっているのを感じる。
失われた時間も、舞台の光も、傷ついた声も、翠の音も、そのすべてがひとつの声の中に宿っていた。
ようやく、その意味に触れる。
エリーは小さく息を吐き、夜の空気に溶けるほどの声で、そっと呟く。
「……虹の聲」
その言葉は、誰にも届かないまま、静かな夜の中へほどけていった。
—— Season 2 完
Season 3 へ続く
ここまでシーズン2を見届けてくださって、
本当にありがとうございました。
シーズン1から、翠とエリーの心の距離、そして音にならない想いを、
言葉にしていく旅を、一緒に歩いてくださったことに、心から感謝しています。
私自身も、音をどう文字に残すのか、
何度も迷い、立ち止まりながらここまで辿り着きました。
その時間を、こうして見守ってくださったことが、
何よりも嬉しく、温かな支えでした。
次の季節では、翠の心の奥にある物語が、少しずつ開いていきます。
シーズン3で、またお会いできたら嬉しいです。
本当に、ありがとうございました。




