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第28話 火のそばで

ウィーン編、

ここから物語は静かにクライマックスへ向かいます。


第28話・第29話は、

ふたりの距離と熱が最も深く重なっていく時間です。


言葉よりも、音と呼吸、そして火の揺らぎの中で、

少しずつ溶けていくものを感じていただけたら嬉しいです。


ここから先は、森虹の静かな官能が本格的に始まります。


山を上がるにつれて、空気が変わっていった。


街の匂いが抜け、木の湿り気と土の温度が、そのまま肌へ触れてくる。

窓の外には、深い緑が幾重にも重なり、その向こうにまだ雪を残した稜線が淡く見えていた。


車が止まる。


チロルの山荘は、山肌に寄り添うように静かに建っていた。

古い石壁と木の梁。

その傍らには、大きな菩提樹が静かに枝を広げていた。

長い年月を、この家とともに見守ってきたような佇まいだった。


扉の前には、ひとりの老人が立っている。

深くも浅くもない視線で、ふたりを見る。


「……お帰りなさいませ」


短く、それだけ言う。


エリーが軽く頷き、山荘の中へ足を踏み入れる。

中はすでに整えられていた。

薪が積まれ、水が用意され、火を入れればすぐに暖が取れる。


扉が閉まる。


外の音が少し遠くなり、ふたりだけの空間が静かに形を持つ。


昼の光がまだ薄く残るうちに、すいは部屋の中をゆっくりと見て回る。


そして、暖炉の上へ視線が止まった。

古い木の書棚。

何世代にもわたって受け継がれてきた本が、静かに並んでいる。

その中で、一冊だけ、なぜか指先が自然に伸びた。


手書きの植物図鑑。


革張りの表紙は時を重ねて柔らかくなり、紙は飴色に変わっている。


ページを開く。


細い線で描かれた葉脈。

花弁の陰影。

繊細な観察記録。


古い筆跡なのに、不思議なほど懐かしい。

理由は分からない。

けれど、どこかでこの線を知っている気がした。


そのまま見つめている翠の横顔を、エリーが静かに見つめる。


「気に入ったなら、持っていけばいい」


あまりにも自然な口調だった。

まるで、最初からそうするつもりだったみたいに。


そう言って、エリーは翠へそっと顔を寄せる。

唇が、静かに触れる。

短く、やわらかいキス。


けれど、離れたその瞬間、翠の指先がエリーの首へゆっくりと回る。

今度は自分から。


視線が重なる。

そのまま、長く、深く唇を重ねる。


時間だけが、そこでゆっくりと溶けていった。


翠は小さく息を吐き、本をそっと暖炉のそばへ置いた。


夜になると、山荘は少し冷えてきた。


エリーが薪へ火を入れる。

乾いた音とともに、小さな炎が生まれる。

やがて火はゆっくりと広がり、部屋全体へやわらかな熱を落としていく。


その前に並んで座る。

しばらく、何も言わない。


火の音だけが、部屋の中に広がっている。


やがてエリーがギターを手に取る。

弦に触れる。

小さく音が生まれる。


そして、ふとブラームスの民謡の旋律を単音でなぞり始める。

その旋律が暖炉の火に溶けた瞬間、翠の胸の奥で何かが静かに揺れる。


あの夜。

パリの部屋で、記憶を持たないはずのエリーが、ただ無意識に鼻歌でなぞっていた旋律。


あのときは、ただ音だけがあった。

けれど今は、その音の奥に、戻ってきた記憶の気配が確かにあった。


翠はその言葉に応えるように、そっとピアノで和音を重ねる。

旋律の下に、やわらかな伴奏が落ちる。

エリーがわずかに目を細める。


「お前、どこでこれを聞いた?」


翠は少しだけ視線を落とす。


「……京都にいた頃」


声が、火の音に溶けるように落ちる。


「母が、僕を身ごもっていた頃によく歌っていたって、父から聞いた」


少しだけ間。


「その録音だけが残っていて、ずっと聴いてた」


ほんのわずかに息を吸う。


「……たぶん、僕は生まれる前から、この旋律を知ってた」


言い終わる前に、エリーがそっと唇を塞ぐ。

深くはない。

けれど、言葉より先に触れてくる温度だった。


ゆっくりと離れたあと、エリーは小さく笑う。


「……涙の行き先は、俺だろ」


そう言って、そのまま翠を抱き寄せる。


暖炉の火が、静かに揺れていた。

録音は最初から回っている。

止める理由がなかった。


音のあいだに、呼吸が混じる。

ギターの余韻に、翠の息が重なる。

鍵盤に置かれていた指先が、いつのまにか別の温度へ触れている。


音から始まったはずなのに、もうどこまでが旋律で、どこからが互いの気配なのか分からない。


火の揺らぎだけが、その境界を曖昧にしていく。

火が揺れる。

その光の中で、輪郭だけが残る。


次の瞬間、翠の指先がエリーの肩へ強く触れる。

いつもより、少しだけ深く。


熱に引かれるように、そのまま身体を寄せる。


火が小さく弾ける。

その音だけが、一瞬ふたりのあいだに残る。


「……エリー」


今までの囁きとは違う。


息に溶けるのではなく、熱の中からこぼれた、はっきりとした声だった。


そのまま、縋るように指先が背中へ回る。

水のように静かだった翠の気配が、火に煽られて、初めて燃えるように揺れていた。


また音が戻る。


少し違う旋律。

重なる。


ほどける。

また、繋がる。


時間が、どこにも留まらない。


夜がどこで終わるのかも、分からない。

ただ、同じ熱の中にいる。


気がつくと、暖炉のそばに置いた植物図鑑のページが、火の気流でわずかに揺れていた。


そこに描かれた植物へ、翠の視線がふと落ちる。

見たことがある気がする。


思い出せない。

けれど、どこかで確かに繋がっている。


言葉にはしない。


火の音だけが、続いている。

その中で、また新しい音が生まれる。


——つづく



ここまで読んでくださって、ありがとうございます。


第28話は、暖炉の火と音楽の中で、

ふたりの距離が大きく変わり始める回でした。


ここから次話にかけて、

物語はひとつの大きなクライマックスへ入っていきます。


音と熱の続きも、静かに見届けていただけたら嬉しいです。

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