表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
62/66

第27話 結び方

ウィーン編も、少しずつ終盤へ向かっています。


これまで胸の奥に沈んでいたものが、

光の中で少しずつ輪郭を持ちはじめる頃。


今話は、翠が静かに覚悟を決めていく、大切な一話です。


ベルヴェデーレの光の中で、

物語が次の扉へ向かって動き出します。


ベルヴェデーレ美術館。


高い天井から落ちる光が、金の装飾にやわらかく反射していた。


絵の前に立つ。


その光は、ただ明るいだけではない。

奥に、沈んだ色がある。

崩れかけたものも、失われたものも、そのまま抱え込んだまま、美しさの中へ閉じ込めてしまうような光だった。


すいはしばらく動かなかった。


長い睫毛の影が頬に落ち、その奥で緑を含んだヘーゼルの瞳が、金の絵肌を静かに映している。

白いシャツの肩に差し込む光が、その輪郭だけをやわらかく浮かび上がらせた。


すれ違う来館者の視線が、ほんの一瞬だけ止まる。

絵を見ていたはずの目が、気づけばその横顔へ吸い寄せられていく。


それでも翠は気づかない。

意識は、昨夜から胸の奥に沈んだままのものへ向いていた。


ハンナの沈黙。


ペーターの包帯に覆われた手。


アレックスの閉じた瞼。


ゾフィーの、あの静かな微笑み。


そして、エリーの手に触れた瞬間に流れ込んできた、途切れた光の記憶。


頭で整理しているわけではない。

ただ、心の奥で静かに受け止めている。


クリムトの金の層を見つめながら、翠はようやく気づいていた。


エリーだけではない。


その背後にある家。

失われた時間。

家業。

相続。

守ってきた人たち。


あまりにも多くのものが、彼の中に重なっている。


そして、自分自身もまた、まだ殻の外へ出きれていない。

師匠のもとと実家、その限られた世界から、ようやく一歩だけ外へ出た。

そのすぐ先で出会ったのがエリーだった。


ここまで見せられて、もう分かってしまった。

パリでふたりだけの時間に身を預けるような、そんな軽さではもういられない。

この人を、かけがえのないものだと思ってしまったからこそ。

ちゃんと、結ばなければならない。


その瞬間、スマートフォンが震えた。


短い表示。


「終わった。どこにいる?」


翠の指が静かに動く。


「ベルヴェデーレ」


すぐに返る。


「行く」


翠は、館を出た。


庭に出ると、空気が少し軽い。

館内の沈黙から解き放たれたように、外の音がやわらかく戻ってくる。


遠くの噴水。

風に揺れる木々の葉。

足元の砂利を踏む靴音。


気づけば、小さくハミングしていた。


まだ形にならない旋律。

けれど、その中にわずかに揺れるものがある。


足音。


振り向く前に、気配で分かった。


エリーが立っている。

少しだけ疲れている。

それでも、翠を見た瞬間に、その青い瞳の奥がやわらかくほどける。


何も言わず、隣に並ぶ。


少し歩く。


距離が、自然に縮まる。


エリーの手が、そっと顎に触れる。


そのまま、近づく。


唇が、触れる。

短く。

けれど、離れない。


呼吸が、ゆっくりと混ざる。


目を開けると、青い瞳がある。

その奥に、まだ揺れが残っている。


「……面倒なことは、嫌いだ」


小さく言う。


「やっと、少し見えたのに」


言葉が、途切れる。


「また、増える」


視線が揺れる。


そのまま、翠を見る。


「……全部、捨てて」


声が、わずかに崩れる。


「俺と行けって、言ってくれ」


短い。

けれど、重い。


翠は、目を閉じる。


少しだけ間を置く。


呼吸を整える。


それから、静かに返す。


「……言わない」


やわらかな声だった。


そのまま、二、三歩だけ離れる。


足を止める。


振り返る。


午後の光が、その瞳に入る。


長い睫毛の奥で、緑を含んだヘーゼルがまっすぐにエリーを見つめる。


その光景に、エリーの呼吸がわずかに止まる。


光の中でほどけたその笑顔だけが、周囲の景色から静かに浮かび上がる。

それだけで、エリーの胸の奥がわずかに熱を持つ。


「エリー」


声はやわらかい。


「僕に、一ヶ月だけくれない?」


少しだけ間を置いて、続ける。


「今日から」


その口元が、ふっとほどける。

強く笑うわけではない。

それでも、眩しい。


その笑顔だけで、胸の奥が熱を持つ。

抱き寄せて、そのまま離したくないと、理性より先に身体が知ってしまう。


「ありのままの僕たちで」


視線が、まっすぐ向く。


「過ごしたい」


言葉が静かに落ちる。


エリーは、しばらく動かなかった。


ただ、見ている。


理由は分からない。

それでもただ、その姿だけが、どうしようもなく胸に残る。


答えはもう決まっていた。


——つづく


ここまで読んでくださって、ありがとうございます。


第27話は、翠が“結び方”を選ぶ回でした。


ただ惹かれるだけではなく、

何を受け取り、どう結ぶのかを、自分で決める。


その静かな覚悟を書きたかった回です。


次話からは、ふたりの時間がまた少しずつ動きはじめます。

その先も、見届けていただけたら嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ