第27話 結び方
ウィーン編も、少しずつ終盤へ向かっています。
これまで胸の奥に沈んでいたものが、
光の中で少しずつ輪郭を持ちはじめる頃。
今話は、翠が静かに覚悟を決めていく、大切な一話です。
ベルヴェデーレの光の中で、
物語が次の扉へ向かって動き出します。
ベルヴェデーレ美術館。
高い天井から落ちる光が、金の装飾にやわらかく反射していた。
絵の前に立つ。
その光は、ただ明るいだけではない。
奥に、沈んだ色がある。
崩れかけたものも、失われたものも、そのまま抱え込んだまま、美しさの中へ閉じ込めてしまうような光だった。
翠はしばらく動かなかった。
長い睫毛の影が頬に落ち、その奥で緑を含んだヘーゼルの瞳が、金の絵肌を静かに映している。
白いシャツの肩に差し込む光が、その輪郭だけをやわらかく浮かび上がらせた。
すれ違う来館者の視線が、ほんの一瞬だけ止まる。
絵を見ていたはずの目が、気づけばその横顔へ吸い寄せられていく。
それでも翠は気づかない。
意識は、昨夜から胸の奥に沈んだままのものへ向いていた。
ハンナの沈黙。
ペーターの包帯に覆われた手。
アレックスの閉じた瞼。
ゾフィーの、あの静かな微笑み。
そして、エリーの手に触れた瞬間に流れ込んできた、途切れた光の記憶。
頭で整理しているわけではない。
ただ、心の奥で静かに受け止めている。
クリムトの金の層を見つめながら、翠はようやく気づいていた。
エリーだけではない。
その背後にある家。
失われた時間。
家業。
相続。
守ってきた人たち。
あまりにも多くのものが、彼の中に重なっている。
そして、自分自身もまた、まだ殻の外へ出きれていない。
師匠のもとと実家、その限られた世界から、ようやく一歩だけ外へ出た。
そのすぐ先で出会ったのがエリーだった。
ここまで見せられて、もう分かってしまった。
パリでふたりだけの時間に身を預けるような、そんな軽さではもういられない。
この人を、かけがえのないものだと思ってしまったからこそ。
ちゃんと、結ばなければならない。
その瞬間、スマートフォンが震えた。
短い表示。
「終わった。どこにいる?」
翠の指が静かに動く。
「ベルヴェデーレ」
すぐに返る。
「行く」
翠は、館を出た。
庭に出ると、空気が少し軽い。
館内の沈黙から解き放たれたように、外の音がやわらかく戻ってくる。
遠くの噴水。
風に揺れる木々の葉。
足元の砂利を踏む靴音。
気づけば、小さくハミングしていた。
まだ形にならない旋律。
けれど、その中にわずかに揺れるものがある。
足音。
振り向く前に、気配で分かった。
エリーが立っている。
少しだけ疲れている。
それでも、翠を見た瞬間に、その青い瞳の奥がやわらかくほどける。
何も言わず、隣に並ぶ。
少し歩く。
距離が、自然に縮まる。
エリーの手が、そっと顎に触れる。
そのまま、近づく。
唇が、触れる。
短く。
けれど、離れない。
呼吸が、ゆっくりと混ざる。
目を開けると、青い瞳がある。
その奥に、まだ揺れが残っている。
「……面倒なことは、嫌いだ」
小さく言う。
「やっと、少し見えたのに」
言葉が、途切れる。
「また、増える」
視線が揺れる。
そのまま、翠を見る。
「……全部、捨てて」
声が、わずかに崩れる。
「俺と行けって、言ってくれ」
短い。
けれど、重い。
翠は、目を閉じる。
少しだけ間を置く。
呼吸を整える。
それから、静かに返す。
「……言わない」
やわらかな声だった。
そのまま、二、三歩だけ離れる。
足を止める。
振り返る。
午後の光が、その瞳に入る。
長い睫毛の奥で、緑を含んだヘーゼルがまっすぐにエリーを見つめる。
その光景に、エリーの呼吸がわずかに止まる。
光の中でほどけたその笑顔だけが、周囲の景色から静かに浮かび上がる。
それだけで、エリーの胸の奥がわずかに熱を持つ。
「エリー」
声はやわらかい。
「僕に、一ヶ月だけくれない?」
少しだけ間を置いて、続ける。
「今日から」
その口元が、ふっとほどける。
強く笑うわけではない。
それでも、眩しい。
その笑顔だけで、胸の奥が熱を持つ。
抱き寄せて、そのまま離したくないと、理性より先に身体が知ってしまう。
「ありのままの僕たちで」
視線が、まっすぐ向く。
「過ごしたい」
言葉が静かに落ちる。
エリーは、しばらく動かなかった。
ただ、見ている。
理由は分からない。
それでもただ、その姿だけが、どうしようもなく胸に残る。
答えはもう決まっていた。
——つづく
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
第27話は、翠が“結び方”を選ぶ回でした。
ただ惹かれるだけではなく、
何を受け取り、どう結ぶのかを、自分で決める。
その静かな覚悟を書きたかった回です。
次話からは、ふたりの時間がまた少しずつ動きはじめます。
その先も、見届けていただけたら嬉しいです。




