第26話 ゾフィー
今話は、朝のテラスに訪れる“現実”の回です。
戻ってきた記憶だけではなく、
失われていた時間の中で、それぞれがどう生きてきたのか。
静かな会話の中で、少しずつ輪郭が見えてきます。
どうぞ、ウィーンの朝の空気とともにお読みください。
朝の光が、テラスにやわらかく落ちていた。
白いクロスの上には、まだ温かいパンと、静かに湯気を立てるコーヒーが並び、銀のカトラリーに映った光が、朝の空気の中で淡く揺れている。
翠は椅子に身体を預け、カップを手にしていた。
向かいにはエリーが座っている。
何かを急ぐでもなく、ただその時間の中にいる。
ここ数日で、あまりにも多くのものが戻ってきた。
記憶。
人。
言葉。
失われていた時間の輪郭が一気に現実へ押し寄せ、まだどこにも収まりきっていないまま、胸の奥に静かに滞っている。
エリーがコーヒーを一口含む。
苦味が、ゆっくりと舌の上に広がった。
そのとき、足音が近づいた。
「坊ちゃん、お客様です」
ハンナが静かに告げる。
「お通ししますか?」
答えを待つ前に、別の音が重なった。
カツ、と乾いたヒールの音。
一定のリズム。
迷いのない足取り。
それが、テラスの手前でほんのわずかに速くなる。
「エリー!」
声と同時に、距離が一気に詰まる。
腕が回る。
ためらいのない抱擁。
やわらかなフローラルの香りが近くで広がった。
エリーは一瞬だけ動きを止める。
それから、自然に応じた。
背中へ手を回す。
強くはない。
けれど、他人でもない。
次の瞬間、そっと離れる。
間を作る。
完全には拒まない。
でも、そこに留まらない。
視線が合う。
「……ゾフィー」
名前が、遅れて落ちた。
女性は微笑む。
淡いシルクのワンピースに、薄いカシミアのニット。
整えられた金の髪。
その立ち姿には、過不足なく整えられた気品があった。
「おかえりなさい」
その一言には、長い時間が含まれていた。
エリーはわずかに視線を逸らす。
完全には思い出せない。
それでも、この距離だけは分かる。
ゾフィーは静かに続けた。
「あなたのことは、ずっと知っていたわ」
少しだけ笑う。
「ロンドンの公演も観に行ったのよ」
その微笑みに、懐かしさが滲む。
「あのモーツァルト、とても綺麗だった」
一瞬だけ言葉が止まる。
「終わったあと、会いに行こうとしたけれど……」
その先は言わない。
空気がわずかに沈む。
事故という言葉を、誰も口にはしなかった。
ゾフィーは静かに息を整え、少し視線を遠くへ向ける。
「アレックスお兄様には、時々お見舞いに伺っていたわ。ずっと眠ったままでも、聞こえている気がして」
その声には、長い時間をひとりで抱えてきた者だけが持つ静かな重みがあった。
エリーは何も言わず、その言葉をただ受け取る。
翠はそっと席を立とうとした。
自然な流れだった。
「……待て」
エリーの声が、それを止める。
翠が振り返る。
短い間。
エリーは迷わなかった。
「……俺の翠だ」
それだけを言う。
ゾフィーの視線が、静かに翠へ向いた。
確かめるように、まっすぐに。
「……そう」
受け止めるだけの声。
少しだけ間を置いて、
「お噂は、前から伺っていたわ」
その声には、探るような響きはない。
ただ、すでに知っていた事実を、静かに差し出すようだった。
「レマン湖の音楽祭も、聴かせてもらったわ」
そこで、ほんのわずかに翠を見る。
視線は鋭くない。
ただ、何かを確かめるように。
そして、小さく息を整えてから、静かに言い切る。
「でも、私は待たなかった」
責める響きはない。
ただ、事実として。
「私は、私の時間を生きたわ」
そのまま翠を見る。
「……もう、必要ないみたいね」
沈黙が、そのまま答えになる。
ゾフィーはほんのわずかに息を吐いた。
そして、ごく薄く微笑む。
「よかったわ」
そう言ったあと、一瞬だけ視線が朝の光へ逃げる。
白い石の欄干の向こうに揺れる庭木の葉が、その金の髪に淡い影を落とした。
けれど、その奥にあるものは誰にも見せない。
ヒールの音が、再び遠ざかる。
扉が閉まる。
音はほとんど残らない。
ゾフィーが去ったあと、テラスには再び朝の光だけが残った。
白いクロスの上でコーヒーの湯気はすでに細くなり、先ほどまでそこにあった気配だけが、まだ空気の中に静かに留まっている。
誰もすぐには言葉を選ばなかった。
やがてエリーが口を開く。
「……あいつとは」
少しだけ言葉を探す。
「物心つく前に、決められてた」
短い沈黙。
「……自分の時間を生きた、って言ってたな」
小さく繰り返す。
視線はどこにも向いていない。
「俺の時間が……どこから始まってるのか、少し分からなくなる」
正直なまま落ちた言葉だった。
翠は何も言わない。
ただ、聞いている。
その静けさの中で、エリーが視線を上げる。
まっすぐに翠を見る。
「……でも」
一歩だけ距離を詰める。
「お前は、俺の翠だ」
揺れない。
翠は答えない。
代わりに、そっと手を伸ばした。
エリーの手に触れる。
そのまま、包み込む。
強くはない。
それでも、離さない。
その瞬間、指先の奥に、ごく微かな震えが走った。
光。
白い天井。
金の額縁。
誰かの横顔。
すぐに消える。
まるで水面に落ちた光の欠片のように。
翠の呼吸が、ほんのわずかに止まる。
けれど今は何も言わない。
ただ、その手を包んだまま、小さく息を整える。
「……僕も、同じだよ」
小さく落ちたその言葉だけで、足りていた。
——つづく
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
第26話は、過去と現在が静かに交差する回でした。
誰も責めず、誰も取り乱さず、それでも確かに心が動く
——そんな温度を大切に書きました。
次話では、触れた先に残された記憶の断片が、少しずつ形を持ちはじめます。
その先も、静かに見届けていただけたら嬉しいです。




