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第25話 手の温度

今話は、静かな病室から始まります。


守られてきた時間と、これから向き合う時間。

言葉にならないものが、そっと手渡されていく回です。


どうぞ、静かな呼吸で読んでいただけたら嬉しいです。


病室は、静かだった。


白い壁に、やわらかな光が沿っている。


窓から差し込む午後の淡い明るさが、壁の白を冷たくはせず、ただ時間だけをゆっくりとそこへ置いていくようだった。


音は少ない。


遠くで誰かの足音がかすかに響き、廊下の向こうで扉の開閉する気配がある。

それさえも、この部屋へ届く頃には、ほとんど沈黙に溶けていた。


ベッドの上に、身体がある。

包帯に覆われた腕と肩。

それでも、目は開いていた。


エリーはゆっくりと近づく。

手にしていた花を、そっとサイドテーブルへ置く。

白いチューリップが、淡い光の中で静かに揺れた。


そのまま、しばらく立ったまま動かない。


何を先に言うべきか、言葉だけが胸の奥で静かに滞る。

やがて、低く、短く声が落ちた。


「……遅くなった」


その言葉に、ベッドの上の唇がわずかに動く。


「……坊ちゃん」


かすれた声だった。

けれど、それだけで十分だった。


エリーが、ゆっくりと手を伸ばす。

包帯の巻かれた手に、そっと触れる。


温度がある。

生きている温度。


その指先に、ほんのかすかに力が返る。

握り返された、そのわずかな感触に、エリーの呼吸が浅く揺れる。


そのとき、ペーターの視線がエリーの手元に止まった。


「……その傷」


途切れながら、言葉が続く。


「……自転車で、転ばれたときの」


わずかに息を吐く。


「……覚えております」


エリーの指が、ほんのわずかに動いた。

視線が、自分の手首へ落ちる。

そこに残る、細い傷。

忘れていたはずの感覚が、ゆっくりと戻ってくる。


風。

石畳の匂い。

転んだ瞬間の鋭い痛み。


そして、そのあと差し出された大きな手。

引き起こされる感触。

ペーターの声。


「……大きく、なられました」


かすかに笑う。

それだけで、時間が繋がる。

幼い日の痛みと、今この病室の静けさが、一本の線になる。


エリーは何も言わない。

ただ、その手を離さない。

言葉にする必要がないまま、何かが静かに戻ってくる。


やがて、ペーターの視線が翠へ向いた。

一瞬だけ。


「……大事な方、で?」


途切れながら、問う。

エリーは答えない。

ただ、翠をそっと近くへ引いた。


距離が、自然に変わる。

ペーターがわずかに息を整える。


「……美しい瞳を、されている」


そのまま、続ける。


「……坊ちゃんを、よろしく」


短い。

それだけが残る。

沈黙の中で、何かが静かに手渡される。


エリーはただ頷いた。

言葉にはしない。

けれど、その頷きだけで十分だった。


やがて、ゆっくりと立ち上がる。


振り返らないまま、部屋を出た。


病院を出ると、外の空気は思っていたよりも軽かった。

胸の奥に沈んでいた重さが消えたわけではない。

それでも、屋内の静けさを抜けたせいか、街の音が少しだけ現実を取り戻させてくれる。


石畳を行き交う靴音。

遠くを走るトラムの低い響き。

どこかの窓辺から流れてくる、かすかなピアノの音。


エリーは何も言わず、そのまま歩いた。

どこへ向かうとも告げないまま、足だけが自然に進んでいく。


やがて、エリーはふいに足を止めた。


国立歌劇場の向かい、ホテル・ザッハーの Rote Bar 。


深紅のファサード越しに見える灯りが、午後のやわらかな光の中で静かに揺れている。

扉の前に立った瞬間、スタッフがすぐに気づき、言葉より先に静かに一礼した。


「お帰りなさいませ」


その声は控えめで、けれど迷いがない。


エリーは何も言わず、わずかに頷くだけで中へ進む。


奥の窓際の席へ、自然に案内される。

深い赤のベルベット、磨かれた木の艶、白いクロスの上に落ちるシャンデリアの淡い光。

黒と白の床が低く光を返し、店内の赤を静かに映していた。

扉を抜けた瞬間、コーヒーと長い時間を吸い込んだ木の家具の匂い、その奥にわずかに残るワインの気配がやわらかく混じり合う。


エリーの視線が、一瞬だけ店内を巡る。


懐かしさが、胸の奥にそっと触れる。

けれど、それは以前のような鋭い痛みではなかった。

ただ、遠い時間の輪郭として、深紅の壁と灯りの中に静かに残っている。


窓際の席に腰を下ろす。


窓の向こうには、午後の光を受けた歌劇場の白い壁面が、少しだけ眩しく見えた。


やがて赤ワインが運ばれてくる。

グラスに注がれる音が、小さく澄んで響く。


エリーは一口だけ含み、そのまましばらく視線を落としていた。


それから、静かに手を伸ばす。

翠の手に触れる。

指先が重なり、そのまま離れない。


「……そばにいてくれて、ありがとう」


低い声だった。


翠がゆっくりと視線を上げる。


長い睫毛の影の奥から、まっすぐに見つめ返される。

その眼差しだけで、喉の奥がわずかに熱を持つ。

思わず、言葉より先に心が揺れる。


少し間を置いて、続ける。


「……これからも」


そこで、わずかに声が揺れる。

理性で整えようとして、それでも整えきれない何かが滲む。


「……そばにいろ」


短い。

けれど、まっすぐだった。


翠は何も言わず、静かに頷く。

ただ、その手を受け止めたまま、そっと指先に力を返す。


しばらく、言葉のない時間が続いた。

店内のざわめきも、遠くの食器の触れ合う音も、どこか別の場所のもののように遠い。


やがて、エリーがゆっくりと視線を上げた。

青い瞳の奥に、もう迷いを隠す色はない。


「……触れてくれ」


低く、静かな声。


翠の呼吸が、ほんのわずかに止まる。


エリーはゆっくりと腕を差し出した。

そこに迷いはなかった。


記憶を取り戻すことも、失った時間に向き合うことも、もう避けないという意志だけが、静かにそこにある。


翠はすぐには動けない。

触れれば、戻るものがある。

同時に、壊れてしまうものもあるかもしれない。


それでも。


エリーは、もう目を逸らしていなかった。


翠は静かに手を伸ばす。


指先が、あと少しで触れる。

——その瞬間。


——つづく


ここまで読んでくださって、ありがとうございます。


第25話は、エリーにとって「守られていた記憶」

と向き合うための、大きな一歩になりました。


次話では、いよいよ失われた時間の扉に触れていきます。

ウィーンの空気とともに、その先も見届けていただけたら嬉しいです。


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