第24話 残るもの
ウィーンの夜が続きます。
止まっていた時間の中で、
今度はもうひとつの“残されたもの”に触れていく回です。
静かな夜の空気の中で、エリーの心が少しずつ現実へ近づいていきます。
今回も、余韻ごとゆっくり読んでいただけたら嬉しいです。
夜の静けさは、まだ屋敷の奥深くに沈んでいた。
広いはずの空間なのに、不思議と音は遠く、壁も天井も、どこか静かに閉じているように感じられる。
ランプのやわらかな灯りだけが、長いテーブルの一角を淡く照らし、その下に落ちた影を静かに揺らしていた。
ハンナが、そっとカップを置く。
白い陶器の縁から、湯気がゆっくりと立ちのぼり、やわらかなハーブの香りが夜の冷えた空気を少しずつほどいていく。
エリーは無言のまま椅子に腰を下ろした。
すぐには口をつけず、ただカップに手を添える。
飲むためというより、その温度だけを確かめるように、指先で静かに熱を受け止めている。
しばらくして、ふいに顔を上げた。
「……ペーターは?」
静かな声だった。
けれど、その一言で、部屋の空気がわずかに張る。
ハンナの手が、ほんの少し止まった。
そのまま視線を落とし、言葉を探すような沈黙が落ちる。
ほんの数秒のはずなのに、妙に長く感じられた。
「……どうした」
エリーの声が、少しだけ低くなる。
ハンナは息をひとつ含み、それから静かに答えた。
「……病院におります」
短く、それだけを残して、彼女は静かに下がる。
扉が閉まる音が、夜の奥へ吸い込まれていった。
部屋から、またひとつ音が消える。
エリーはしばらく動かなかった。
「……は?」
遅れて落ちたその声とともに、記憶の断片が、胸の奥でゆっくりと繋がり始める。
車。
炎。
誰かの腕。
強く抱き上げられる感覚。
熱の向こうで、自分を包んでいた、あの体温。
そこまで辿り着いた瞬間、エリーは立ち上がった。
そのまま奥の部屋へ向かう足音だけが、硬く床に落ちる。
「……説明しろ」
低く、抑えた声だった。
マネージャーがゆっくりと振り返る。
その眼差しには、ハンナとどこか似た、長くこの家を支えてきた者だけが持つ静けさがあった。
一瞬だけ、言葉を選ぶ間が落ちる。
「……お守りする際に」
そこで、わずかな沈黙。
「大きな火傷を負いました」
それ以上の言葉はなかった。
静けさだけが、部屋に沈んでいく。
エリーは何も言わない。
意味は、もう理解している。
けれど、その理解に言葉が追いつかない。
「……今も?」
ようやく絞り出した声が、わずかに掠れる。
「……治療中でございます」
その一言だけが返る。
エリーの視線が、ほんのわずかに揺れた。
何かを言おうとして、言葉にならず、そのまま部屋を出る。
廊下へ落ちた足音は、先ほどより少しだけ不規則だった。
長い廊下の先で、エリーが立ち止まる。
「……翠」
短く呼ぶ。
翠が振り向いた。
その次の瞬間には、エリーはもうすぐそばまで来ていた。
言葉はない。
ただ、そのまま静かに抱き寄せる。
強くはない。
けれど、離れようとする余白もない。
呼吸が、少し乱れていた。
胸の奥で何かが崩れそうになる、その寸前の熱だけが、触れた腕越しに伝わってくる。
「……どうしたらいい」
言葉の端に、母語の響きが滲む。
自分でも整えきれないまま、声だけがこぼれ落ちた。
翠は何も言わず、そっと抱き返す。
背中へ回した手が、静かに温度を確かめる。
夜の静けさの中で、互いの呼吸だけが近い。
しばらくして、エリーが小さく息を落とした。
「……明日、病院に行く」
少しだけ落ち着きを取り戻した声で、続ける。
「……一緒に来てくれるか」
翠はほんのわずかに間を置いてから、静かに頷いた。
「もちろん」
それから、そっと言葉を添える。
「花、持っていこう」
エリーが、ごく小さく息を混ぜる。
「……ああ」
その瞬間、記憶の奥にふいに色が差した。
ペーターがハンナに手渡していた花束。
朝のやわらかな光の中で揺れていた、白いチューリップ。
「……チューリップ」
小さくこぼれた言葉に、翠が静かに頷く。
まだ何も解決していない。
それでも、この夜に残った温度だけは、確かだった。
——つづく
ここまで読んでくださってありがとうございます。
今回は、23話で揺れ始めた心が、
さらに現実の痛みへ触れていく回になりました。
ペーターという存在は、
エリーにとって守られる側だった幼い頃の記憶とも深くつながっています。
その事実に触れたことで、少しずつ“逃げられないもの”が形を持ちはじめています。
次話では、いよいよ病院へ向かいます。
静かな夜の続きとして、見守っていただけたら嬉しいです。




