第16話 Schön
夜の静けさの中で、
少しずつ戻ってくるものがあります。
はっきりと思い出せなくても、
触れた温度や、声の響きだけが残ることもある。
そんな時間を描いた回です。
夜の街は、すでに光を落としていた。
遠くに、山の輪郭が静かに浮かび上がっている。
空には、数えきれないほどの星が瞬いていた。
冷たい空気が、わずかに流れる。
翠は、しばらくそのまま外を見ていた。
そっと手を伸ばし、カーテンを引くと、
光が静かに遮られ、外の気配がゆっくりと遠ざかっていく。
部屋の中に、別の静けさが落ちる。
エリーは横たわったまま、目を閉じている。
その呼吸は、昼よりもわずかに深くなっていた。
ときどき、言葉にならない音が、かすかにこぼれる。
夢の続きのように、途切れながら。
翠は、そのそばにいる。
もう距離は取っていない。
ベッドの縁に腰を下ろし、確かめるようにその手に触れている。
指先をゆっくりとなぞると、温度が遅れて静かに返ってくる。
翠は、わずかに身をかがめる。
ためらいはない。
そのまま、手のひらに頬を寄せると、
触れた温度がそのまま残る。
エリーの呼吸が、ほんの少しだけ揺れる。
夜は、静かに続いている。
やがて、指先に、わずかな力が返る。
ほんの一瞬の変化に、翠は顔を上げる。
瞼が、かすかに動き、呼吸がわずかに乱れる。
ゆっくりと、目が開く。
光が、揺れる。
「……Wo…?」
掠れた声が、落ちる。
視線はまだ定まらないまま、
どこか遠い場所を探している。
「……Vater……?」
無意識にこぼれる。
翠の呼吸が、止まる。
けれど、その揺れは長くは続かない。
焦点が、少しずつ戻ってくる。
その視線が、翠をとらえる。
「……翠……?」
名前が、遅れて形になる。
そのあと、
かすかに、もう一度だけ声が落ちる。
「……schön……」
扉が開く。
「気がつきましたか?」
看護師が入ってくる。
足早に近づき、状態を確かめる。
「わかりますか? ご自分のこと」
エリーは、わずかに眉を寄せる。
意識が、現実へ戻ってくる。
「……ここは?」
翠を見る。
「どこだ」
「病院です。今朝、倒れて運ばれてきました」
穏やかな声。
「大丈夫ですよ」
それだけ残して、医師を呼びに出ていく。
部屋に、再び静けさが戻る。
エリーは、ゆっくりと息を吐く。
まだ、何かが揺れている。
そのまま、翠の手を見る。
離れていない。
翠は、何も言わずに、その手を両手で包み込む。
温度が、少しだけ伝わる。
そのまま、唇がわずかにひらく。
低く、かすかに。
旋律が落ちる。
ブラームス。
子守歌。
言葉にならないまま、息のように流れていく。
音が、空気をやわらかくほどく。
エリーの呼吸が、わずかに緩む。
ほんの少しだけ、笑う。
「……涙の行き先は、俺だよ」
低く、かすれた声。
翠は、すぐに頷く。
「うん。知ってる」
それだけだった。
沈黙が、静かに落ちる。
やがて、エリーが口を開く。
「……夢を見てた」
言葉を探すように、ゆっくりと。
「何か……大事だった気がする」
少しだけ、間。
「でも、思い出せない」
その声は、どこか遠い。
翠は、静かに身をかがめる。
距離を、少しだけ近づける。
エリーの耳元へ。
「……僕のことを覚えてくれていたら」
声は低く、やわらかい。
「それでいい」
そのまま、ほんのわずかに触れる。
触れたか、触れていないか。
境界が、曖昧になる。
エリーは、何も言わない。
ただ、呼吸が少しだけ重なる。
部屋の中に、まだ音が残っている。
ブラームス。
遠くで、静かに流れ続けている。
——つづく
ここまで読んでくださって、
ありがとうございます。
とても静かな再会のような時間。
言葉よりも先に届くものが、
ふたりの間に少しずつ戻ってきています。
この先、場所も空気も変わっていきますが、
その流れも一緒に見守っていただけたら嬉しいです。




