第17話 境界
場所が変わると、
見えてくるものも、少しずつ変わっていく気がします。
今回は移動の時間の中で、
ふたりのあいだにあるものと、
まだ言葉にならない記憶の気配が、静かに揺れる回になりました。
少し不思議な余韻も含めて、
ゆっくり読んでいただけたら嬉しいです。
機体は、すでに雲の上にあった。
窓の外は、白くやわらかく滲んでいる。
低く続くエンジン音が、一定の呼吸のように、機内を満たしていた。
隣のエリーは、少し前まで、落ち着きがなかった。
「一度パリに戻りたい」
同じ言葉を、何度も繰り返す。
「ウィーンなんて、真っ平だ」
苦笑まじりの強がりだった。
ドイツ語は苦手だとか、
ブラームスだって、わかるわけないだろうと、
らしくないことまで、口にしていた。
それでも。
「スタジオ、いいの押さえてるらしい」
翠が軽く置くと、少しだけ黙った。
「アルバム、作ろう」
その一言で、ようやく視線が揺れる。
「……クリムトも、見てみたかったんだろ」
半分は、冗談。
残りの半分で、背中を押す。
やがて、短く息を吐いて、
「……面倒だな」
そう言いながら、もう拒まなかった。
そして今、隣で、エリーは眠っている。
わずかに開いた唇。
規則正しい呼吸。
その静けさが、かえって現実の遠さを感じさせる。
翠は、視線を落とす。
言葉の意味は、もう残っていない。
ただ、あの響きだけが、
どこかに触れたまま離れない。
最初から、少しだけ違っていた。
フランス人のはずなのに、どこか、違う。
うまく言葉にはならない。
ただ、音の中に、
別の輪郭が混じることがある。
あの夜。
ハミングでなぞったブラームスが、不思議なほど、迷いなく馴染んだ。
覚えているはずのない響きに、最初から触れているみたいに。
そして。
「……Wo…」
「Vater……」
掠れた寝言。
意味よりも、
その方向だけが残る。
さらに、医師の言葉とマネージャーが指した場所——ウイーンが重なる。
理由は、まだ見えない。
けれど。一度、揃い始めたものは、簡単にはずれない。
翠は、視線を落とす。
隣で眠るエリーに。
確かめるように、
そっと頬へ触れる。
やわらかい温度。
そのまま、意識を沈める。
光が、ひらく。
白。
強いスポットライト。
舞台。
音が、空間をまっすぐに切り裂く。
少年が、立っている。
細い身体。
まっすぐな背。
プラチナブロンドの髪が、光を受けている。
その声は、澄みきっている。
どこにも濁りがない。
観られている。
その中心に、いる。
翠は、そこで気づく。
――エリーだ。
次の瞬間。
止める。
それ以上は、踏み込まない。
手を離す。
光が、閉じる。
機内の静けさが、戻る。
理由は、わからない。
けれど。
あれ以上、触れてはいけない気がした。
ただ、それだけが残る。
翠は、目を閉じる。
今度は、自分の側へ沈む。
森。
光が、やわらかく落ちている。
風が、葉を揺らす。
ひとりの青年が、立っている。
花を見ている。
その横顔が、静かに浮かび上がる。
やがて、振り返る。
瞳。
緑がかった、ヘーゼル。
自分と同じ色。
「……誰」
問いが、かすかに落ちる。
その瞬間。
理由のない感覚が、胸の奥に触れる。
知らない場所のはずなのに、
ずっと前から、ここにいたような気がした。
言葉にする前に、消えていく。
「翠」
呼ばれる。
意識が、引き戻される。
目を開けると、現実の機内の光が戻ってくる。
エリーが、こちらを見ている。
まだ少しだけ、眠りの余韻を残したまま。
「着くぞ」
低く、静かな声。
翠は、わずかに頷く。
窓の外に、地面が近づいている。
白い雲の層を抜けて、ウィーンの滑走路が、ゆっくりと姿を現す。
機体が、わずかに揺れる。
現実が、確かな形を取り戻していく。
それでも。
さっき見た光と、森の静けさは、まだどこかに残っていた。
境界は、まだ消えていない。
——つづく
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
今回は、現実と記憶、そのあわいを歩くような一話でした。
エリーの輪郭だけでなく、
翠自身の中にも、まだ見えていない何かが少しずつ浮かび始めています。
次回から、いよいよウィーンの空気へと入っていきます。
その変化も、一緒に楽しんでいただけたら嬉しいです。




