第13話 白の奥で、触れるもの
静かな場所ほど、
触れていないものが、はっきり残ることがあります。
言葉にならないまま、
呼吸や、距離や、気配だけが重なっていく時間。
今回は、そんな“まだ音にならないもの”を辿る回です。
白い廊下は、思っていたよりも静かだった。
足音だけが、わずかに遅れて返ってくる。
遠くで機械が動いているはずなのに、
その気配さえ、空気の奥でほどけている。
翠は一度だけ足を止める。
行き先を考えたわけではないのに、
身体のほうが先に迷っていた。
「翠」
横から、声が落ちる。
振り向くと、エリーのマネージャーが立っている。
無駄のない立ち方と、揺れない視線。
一瞬だけ測られるような感覚があり、
それでも、その奥にわずかな敬意が残っていた。
「こっちよ」
短く言って、歩き出す。
急かすわけでもなく、けれど迷いもない足取り。
翠は何も言わず、そのあとを追った。
白い光の続く廊下を進む。
すれ違う人の気配が、衣擦れのように触れては消えていく。
やがて、ひとつの扉の前で足が止まる。
「ここ」
それだけを残して、マネージャーは一歩下がった。
空気が、わずかに沈む。
翠はノックをせずに、扉を開ける。
やわらかな光が落ち、
静けさが、重なっている。
ここだけ、時間の流れがわずかに違う。
ベッドに横たわる身体は、
淡い髪をほどいて枕に静かに広げ、
そのまま触れれば崩れてしまいそうなほど、輪郭が薄い。
それでも、呼吸だけは確かに続いている。
そのリズムだけが、遅れて、胸に届く。
翠はすぐには近づかない。
少し距離を置いたまま、その呼吸の間を見ている。
やがて、ゆっくりと歩み寄る。
ベッドのそばで、手がわずかに浮く。
触れる前の空気が、薄く張りつめる。
指先だけが、そっと触れる。
冷たくはない。
けれど、朝の熱は、もうどこにも残っていない。
触れたはずの温度だけが、
指の内側で、遅れてほどけていく。
翠は静かに息を整える。
「……エリー」
名前だけが、落ちる。
返事はない。
それでも、呼んだ声の余韻だけが、わずかに空気に残る。
椅子に腰を下ろす。
音を立てないように。
ただ、そこにいる。
何も起きない時間が、ゆっくりと続く。
それでも、呼吸の間だけは、確かに重なっていた。
やがて、もう一度、手を取る。
今度は、迷わない。
息が、うまく落ちない。
胸の奥で、古い記憶がかすかに触れる。
その瞬間、呼吸が一度だけ乱れる。
触れないままではいられない。
指先が、そっと重なる。
その瞬間、内側のどこかが、引き寄せられる。
温度ではなく、沈んでいるものに触れる感覚。
白い天井。
揺れる影。
光。
白く塗られた顔。
高く、まっすぐな声。
指先が、どこかを指している。
舞台。
光の中。
知らないはずの光景が、一瞬だけ、流れ込む。
翠は、息を止める。
視界が戻る。
それでも、手は離さない。
指先に残ったものだけが、まだほどけずにいる。
そのとき、廊下の奥で気配が増える。
揃った靴音が近づき、少しだけ強く響いて、すぐに消える。
ドアの外に、数人の影が止まる。
「ええ、今は……」
マネージャーが短く応じる。
声は低く、落ち着いている。
整ったスーツ。
手に持たれた書類。
無駄のない視線。
その中の一人が、低く声をかける。
「……マチルダ」
敬称が、つかない。
わずかに、空気が変わる。
マネージャーは振り向かない。
「後にして」
短く、それだけを返す。
言葉は柔らかいのに、そこに余白はない。
外の男たちは、それ以上踏み込まない。
心配というより、状況を確かめに来ているような気配だけが残る。
翠は振り返らない。
エリーの手を握ったまま、
その場に残る空気を受け取っている。
さっきまでの静けさに、
別の気配が、わずかに重なる。
まだ、音にはならないまま。
確かに、そこにある。
——つづく
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
大きく動く回ではありませんが、
触れたものが、少しずつ残っていくような時間を書いています。
次から、空気が少しずつ変わっていきます。




