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第12話 ずれはじめる音

湖の光の中で、静かに交わされる再会。


懐かしさと、わずかな違和感。


まだ、形にはならないまま、

何かが少しずつずれはじめていく回です。


カフェテリアの奥。

大きな窓から、レマン湖の光がゆるやかに差し込んでいる。


その光の中で、サンドロはひとり、コーヒーを前にして座っていた。

すでに運ばれてきてから、少し時間が経っている。


カップにはまだ触れていない。


扉が開く。

人の出入りは絶えない。

その中で、ひとつだけ、視線を引く気配があった。


白。

やわらかい光をまとったように、翠が入ってくる。

少しだけ乱れた髪。

まだ、朝の名残を残したままの顔。


サンドロの視線が、わずかに動く。


翠は彼に気づくと、軽く歩み寄った。

向かいに座る。


「Ciao」


「Ciao」


短いイタリア語が、静かに落ちる。

久しぶりの響きなのに、どこか違和感がない。


サンドロは、メニューを見るふりをしてから、店員に声をかける。


「Una cioccolata calda」

少しだけ間を置いて、

「蜂蜜も」


それから、翠を見る。


「まだ、これだろ」


翠は、わずかに目を細める。


否定もしないまま、ただ、肩の力が少しだけ抜ける。


やがて、ココアが運ばれてくる。

湯気が、やわらかく立ちのぼる。


翠は、何も言わずに蜂蜜を落とす。

ゆっくりと、金色が沈んでいく。


スプーンでかき混ぜる。

その仕草だけが、静かに続く。


一口。


甘さが、広がる。


それから、顔を上げる。


「サンドロは、今どうしてるの?」


「家のことだよ」

短く返す。


「今回も、ここに少し関わってる」


それ以上は続けない。


翠は、少しだけ頷く。


「ピアノは?」


サンドロは、一度だけ視線を落とす。


「触らない」


それだけだった。


わずかな沈黙。


湖の光が、テーブルに揺れている。


サンドロは、ふと翠の指先を見る。

その動き。

カップの持ち方。


昔と、同じところと、違うところ。


「……変わってないな」


小さく、こぼれる。


翠は、少しだけ笑う。


「そう?」


その笑顔が、どこか記憶の中と重なる。


サンドロの中で、時間が一瞬だけずれる。


そのときだった。


ロビーの奥。


空気の流れが、わずかに変わる。

それに遅れて、音がずれる。


人の動きが、ほんの少しだけ止まる。


サンドロの視線が、そちらへ向く。


何かが起きている。


だが、すぐには見えない。

人の影が重なっている。


翠は流れを感じる。


「どうした?」


サンドロは、すぐには答えない。


もう一度、そちらを見る。


人が集まっている。

誰かが、名前を呼んでいる。


「……翠」


遠くから、かすかに聞こえる。


その一瞬。

胸の奥が、わずかに揺れる。


ただ、何かがずれている。


翠は、カップを置く。


「……今の」


言葉が、少しだけ遅れる。


サンドロは答えない。


視線は、まだロビーの奥にある。


人の動きが、明らかに変わっている。

ひとつの場所に、集まっている。


声が重なる。

けれど、どこか遠い。



「大丈夫?」

「誰か呼んで」


断片的に届く。


その中に、もう一度。


「……翠」


今度は、はっきりと聞こえた。


空気が、変わる。


翠の呼吸が止まる。


「……なに」


立ち上がる。


椅子が、わずかに鳴る。

その音が、やけに遠い。


足が動く。

ロビーの方へ。


人の隙間を抜ける。


見えない。

まだ、見えない。


ただ、中心に近づくほど、ざわめきが濃くなる。


胸の奥が、嫌な形に締まる。


「すみません」


誰かの肩に触れる。


その隙間。


一瞬だけ、視界が開く。


床。


光をはねる、淡い髪。


それが何なのか、すぐには繋がらない。


動かない。


時間が、遅れる。



「……エリー?」


声が、出ない。


誰かが、何かを言っている。


手。

触れている人。


遠くで、誰かが走る。


「救急、呼んでる」


言葉だけが、浮く。


翠は、動けない。


視界が、わずかに揺れる。


そこにあるはずのものが、現実として繋がらない。


「……翠」


後ろから、声。


サンドロだった。


いつの間にか、すぐ後ろにいる。


その視線は、もう状況を理解している。


「……そのままでいい」


低く、短く。


翠は、反応しない。


ただ、前を見ている。


エリーの姿。


触れられている。

呼ばれている。


それでも、動かない。


音が、遠い。


さっきまでの朝が、一瞬で切り離される。


「……搬送する」


誰かの声。


ストレッチャー。

白い布。


翠の足が、ようやく動く。


一歩。


近づこうとして、止まる。


触れていいのか、わからない。


距離が、残る。


そのまま、運ばれていく。


光をはねる、淡い髪だけが、わずかに揺れる。


それが、最後に見えた。


人の流れが、戻る。


音だけが戻る。


けれど、何も戻らない。


翠は、その場に立ったまま動かない。


サンドロは、少し離れた位置で、その背中を見ている。


声はかけない。


ただ、静かに見送る。


——つづく


音は、いつも同じ場所に戻るとは限らない。


重なっていたはずのものが、

ほんの少しずれただけで、

世界の見え方は変わってしまう。


この先、ふたりの音がどこへ向かうのか、

静かに見守っていただけたら嬉しいです。

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