表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
46/66

第11話 mon miel

夜のあとに来る朝は、

まだ少し、続いている。


触れた温度や、言葉にならなかったものが、

そのまま残っている時間。


まだ離れきらない距離の中で、ふたりは同じ朝にいる。


そんなひとときの話です。


シーツの上に、まだ熱が残っている。

窓は少しだけ開いていて、春の空気が、やわらかく入り込んでくる。

遠くで、水が揺れる音。


翠は、ゆっくりと目を開ける。


左手が、視界に入る。

触れられていた場所。


指でなぞると、夜の熱を、思い出す。

わずかに、息がほどける。


背中に、重み。

エリーの腕が、そのまま残っている。

眠りきれなかった温度を抱えたまま、静かに、翠を引き寄せている。


強くはない。

それでも、離れる余白が、どこにもない。


首元に落ちる呼吸。

触れているだけで、身体がまた、思い出してしまう。


「……まだ、いいだろ」


低い声が、近すぎる距離で落ちる。


翠は、答えない。

ただ、少しだけ身体を預ける。


ノックの音。


一瞬、空気が揺れる。


それでも、エリーは動かない。


「……後でいい」


小さく、そう言って、さらに距離を縮める。


そのまま、時間が少しだけ伸びる。


やがて、ドアの音で、朝が、静かに入り込む。


並べられた朝食。

オレンジの光と、焼きたての香り。


翠は、蜂蜜をたっぷりとかける。

金色が、ゆっくりと流れる。


そのまま口に運ぶ。

甘さが広がって、夜の余韻と、静かに重なる。


カフェオレにも、同じように。

迷いなく、蜂蜜を落とす。


向かいで見ていたエリーが、ふっと笑う。


何も言わずに、手を伸ばし、

そのまま、引き寄せる。


軽く触れた唇に、甘さが、そのまま移る。


エリーが、小さく息を混ぜて笑う。


「……この甘さ、音にしたくなる」


そのまま、ギターを手に取る。

まだ整っていない音が、朝の空気にやわらかく溶けていく。


即興。

甘く、ほどける旋律。


少しだけ考えるようにしてから、短く呟く。


「mon miel」


もう一度、同じフレーズをなぞる。


翠が、思わず笑う。


その瞬間、音が、途切れる。


電話が鳴る。


エリーが、ゆっくりと顔を上げ、一度だけ、翠を見る。


そして、そのまま受話器を取った。


「……oui」


短く、応じる。


少しだけ間。


視線が、翠に戻る。


「……お前だ」


受話器を差し出す。


翠は、少しだけ息を整えてから、それを受け取る。

空気が、ほんのわずかに変わる。

エリーは、何も言わない。

ただ、さっきまで触れていた温度だけが、まだ、離れていない。


電話が終わる。


「……行くのか」


問いじゃない。

ただ、残る。


翠は、少しだけ迷ってから、頷く。


エリーは、何も言わない。

代わりに、近づき、短く、触れる。


今度は、甘さじゃない。

少しだけ、深い。


「……行ってこい」


低く、静かに、そっと。


そのまま、離れ、距離が、戻る。


さっきまでとは違う、朝の光の中で。


翠は、振り返る。


エリーはもう、ギターに指を置いている。

音は、まだ鳴らない。


「……早く戻れ」


そう言って、少しだけ、笑っている。


翠は、ドアを開ける。

一瞬だけ、光が揺れる。


そのまま、外へ出る。


音は、まだ鳴らないまま。


——つづく


ここまで読んでいただき、ありがとうございます。


触れたあとに残るものは、

消えるのではなく、

少しずつ形を変えていきます。


音よりも先に重なったものが、

やがて、言葉や行動を越えて、

ふたりのあいだに残っていく。


そしてその静かな時間の中に、

新しい気配が入り込んできます。


次も、ゆっくりと続いていきます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ