第5話 星の音
言葉より先に、音が触れる話です。
舞台の灯り、息の間、
ふたりのあいだに落ちる静けさを、
そっと受け取ってもらえたらうれしいです。
舞台の灯りは、静かだった。
客席のざわめきが、ゆっくり落ちていく。
扉の向こうから、夜の空気が流れ込む。
遠くに、湖の匂い。
エリーが、最初の音を出す。
その音は、たよりなく、すぐ消えそうだった。
けれど、消える直前に、ひと粒だけ光る。
小さな光の粒。
暗がりの中で、かすかにほどける。
翠は、息を止める。
――まずい。
エリーの気配が、あまりにも薄い。
翠はすぐに、深い和音を置いた。
空間の奥が、低く震える。
倍音が広がり、見えない水面に細い波紋が立つ。
その上に、さっきのエリーの音が、淡く残る。
そして、ギターが鳴る。
今度は、消えない。
翠の水みずしい音が、その小さな光に触れる。
粒がひとつ、またひとつ、静かに反射していく。
弱かった音が、消えない。
翠の音が重なるたび、輝きが少しずつ増していく。
水面に落ちた雨が、光を拾って揺れるみたいに。
翠は旋律へ入る。
ピアノの指がほどける。
細い音が落ちる。
一粒。
また一粒。
やがて、それは雨になる。
薄い膜を透った水滴のように、
細かな音が、静かに降りはじめる。
その粒は、エリーの光を映し返しながら、
会場の暗さを少しずつ照らしていく。
ひとつだった光が、いくつにも増えていく。
星のように、けれどもっと近く、手の届くところで揺れている。
エリーが、顔を上げる。
——あ。
翠の音。
静かな雨が、降り注ぐ。
その中で、エリーの呼吸だけが、かすかに揺れた。
エリーは立ち上がる。
数歩で、ピアノの横へ寄る。
そこからギターが、もう一度鳴る。
今度は違った。
音が触れた瞬間、夜の底がひらく。
小さな光の粒が、空気の中でほどけて、散っていく。
それは星のようで、星よりもやわらかかった。
ピアノが流れ、ギターが重なり、
水と光が、ひとつに混ざっていく。
夜が、音になった。
その音は透明なのに、どこか肌に触れる。
触れた瞬間だけ、胸の奥が少しだけほどける。
細い光が、指先のあいだを通り抜けていく。
旋律は一気に広がり、客席の上まで、静かな輝きが満ちていく。
小さな粒が、次々と星のかたちをとって、夜の天井に散った。
やがて――流れがほどける。
エリーのギターが、ゆっくり下降する。
翠が、低い和音を置く。
最後のひかりが、そっと消える。
静寂。
一拍遅れて、拍手が起こる。
最初はまばらに。
それが少しずつ重なり、客席の奥まで波のように広がっていく。
やがて、客席全体が静かに立ち上がった。
スタンディングオベーションだった。
エリーは小さく息を吐く。
言葉はなく、翠を見る。
その視線は短いのに、妙に近かった。
熱を隠したまま、触れる前の距離だけを残している。
二人は軽く頭を下げ、舞台袖へ戻る。
扉の隙間から、夜の湖の風が流れ込む。
アンコールの拍手は、まだ遠くで続いていた。
エリーは少し笑って、翠の方を見る。
その笑みに、音の余韻と、消えきらない星の気配が残っている。
湖の夜に、
ひとつの旋律が、静かに残っていた。
小さな光の粒のまま、
まだ、水面のどこかで揺れていた。
——つづく
読んでくださってありがとうございます。
今回は、出来事そのものより、
音が残す余韻を大事に書きました。
大きく動く回ではありませんが、
そのぶん静かな熱が残ればと思っています。
音楽を言葉にするのは難しかったですが、
今回はその難しさごと、試してみました。




