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第4話 呼び声

賑やかな時間のあと、

ひとりに戻ったときに気づくものがあります。


この回では、

翠の中にある変化の“はじまり”を描いています。


静かに、物語は動き始めます。


パーティーが終わり、夜はもう深く沈んでいた。


玄関でエリーが軽くビズをする。


「またな」


それだけ言って、外へ出ていった。


扉が閉まる。

廊下に静けさが落ちた。


さっきまでの笑い声やグラスの音が、

まだ空気の奥に薄く残っている。


すいは部屋の灯りをつけた。


久しぶりの実家の部屋。

どこか懐かしい光だった。

さっきまで隣にいたはずなのに、

急に、静かすぎる。


その静けさの中で、翠はふと気づく。


——ああ。

寂しいんだ。


窓の外。

遠くの街灯。


翠はベッドの端に腰を下ろした。


人の多い場所は、昔から少し苦手だった。


言葉。

視線。

思い。


それが重なると、音が濁る気がする。


サンドロは逆だった。


人の中にいるほど、音が自由になる。


ラフマニノフ。

二台のピアノ。


あの舞台の空気が、胸の奥にふと浮かぶ。


翠は小さく息を吐いた。


そのとき、スマートフォンが震えた。


エリー。


短いメッセージ。


ラフマニノフ、聴いた。

お前とやりたい。

気が向いたら来い。


それだけだった。


翠はしばらく画面を見ていた。


レマン湖。

音楽祭。

遠い場所。


胸の奥で、触れられたみたいに何かが動く。

けれど、その感覚はすぐ静かに沈んだ。


翠はスマートフォンを伏せる。

部屋はまた、音を失った。



数日後。

翠は、まだ返事をしていないことに気づいた。

断るなら、きちんと言った方がいい。

そう思って、電話をかける。


呼び出し音。

二度。

三度。


そして、繋がる。


「……翠?」


エリーの声。

けれど、どこか重い。

呼吸が浅い。


「元気?」


少し沈黙が落ちる。


そのとき、向こうで何かが落ちる音がした。


ばさり。


「エリー?」


返事はない。


遠くで誰かの声。


「エリー? 大丈夫か?」


小さなざわめき。

そして、通話は切れた。


翠はしばらくスマートフォンを見ていた。

胸の奥に、小さな違和感が残る。


——なにか変だ。


それだけだった。


気づくと、外に出ていた。

駅まで歩く。

夜の空気は少し冷たい。

電車に乗る。


窓の外を景色が流れていく。

湖。

山。

遠い光。


きっと美しいはずの景色だった。


けれど、翠の目にはほとんど入ってこない。


頭の奥で、音だけが続いている。

ピアノ。

ギター。

そして、あの声。


翠?


その呼び声が、何度も浮かぶ。


翠はふと気づく。


自分が、誰かのことをこんなふうに考え続けていることに。

早く顔を見たいと思っていることに。


まだ名前を持たない感情が、胸の奥で静かに広がっていた。


会場の近くでタクシーを降りる。


湖の空気。

夜の風。

遠くから、ギターの音が聞こえてくる。


音楽祭は、もう始まっていた。


翠は会場へ歩く。

灯り。

人の気配。

その横を抜け、控室へ向かった。


扉を開ける。


ソファに、エリーがいた。

身体を預け、目を閉じている。


翠は近づく。


「エリー」


頬に触れる。


熱い。


エリーはゆっくり目を開けた。


翠を見て、少し笑う。


「……来てくれたんだ」


翠は答えない。


エリーは身体を起こし、ギターを手に取る。


「じゃあ、行こう」


マネージャーが声を上げる。


「そんな体で無理よ」


エリーは聞かない。

ただ、翠の手を取る。

その手は少し熱かった。

けれど、振りほどく理由はなかった。


そのまま舞台へ向かう。

灯り。

人の気配。

音。

すべてが、ゆっくり近づいてくる。


エリーの手は離れない。

翠も、離さない。


そのまま、二人はステージの光へ歩いていく。

音楽は、もう始まっていた。


——つづく


お読みいただき、ありがとうございます。


この回は、出来事というよりも、

翠の内側で起きている変化を中心に描きました。


はっきりと言葉にはならないけれど、

確かに動き始めているものがあります。


次話では、舞台の上でその続きが描かれていきます。

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