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第3話  箱の中の呼吸

ホームパーティーのつづきです。


箱の中に残っていたのは、少し古い映像でした。

若い頃の音。

まだ言葉にならない関係。

過去の断片は、ときどき思いがけない場所で静かに鳴ります。



パリの午後。


最後の曲は、ギターとピアノ。


音の輪郭が薄い。

天井の奥へ、息が抜けていく。


エリーは楽しそうに弾いていた。

笑っているのに、手は正確で、呼吸は落ち着いている。

すいは合わせた。


演奏が終わると、拍手が起きた。

大げさではない。

けれど温かい。


「昔のもの、見る?」


ルルが棚の奥から箱を引っ張り出す。

写真、古いプログラム、録画されたビデオ。


「見るの?」


「え、見たい!お兄ちゃん、昔どんなだったの?」


再生された映像に、十四歳の翠が映った。


ピアノの前で、こちらを一度も見ない。

その隣に、同じ年頃の少年が座っている。

もう一台のピアノの前。

ラフマニノフ。

二台のピアノのための組曲。


映像の音は古いのに、二人の呼吸は鮮明だった。


エリーは目を逸らさない。


「……すごいな」


「その子、サンドロよね?」


セシルが言う。


名前が出た瞬間、翠の中のどこかが一段冷えた。

痛みではない。

ただ、温度が下がる。


「サンドロは、どうしてるの? 連絡あった?」


翠は少し間を置いてから、首を振った。


「ない。……どうしてるんだろ」


映像は続く。

二人の音はよく溶けていた。

技巧より先に、同じ場所を見ている感じがある。


エリーはその映像を最後まで見た。

終わってからもしばらく黙っていた。


「……翠、プロじゃん」


「昔の話」


「昔でも関係ない。これ、普通じゃない」


翠は画面を見なかった。

音で隠れていたものが、映像だと少し剥がれる。


「イベント、一緒にって言ったら、嫌?」


「……恥ずかしいから」


「なにが?」


「見られるのが」


エリーは笑った。

笑ったまま、翠の肩に軽く触れる。


「そっか」


それ以上は踏み込まない。

手はすぐに離れた。

その引き際だけが、少し残る。



夜が更けるにつれて、客は少しずつ帰っていった。

玄関の扉が閉まるたび、家は静かになる。


最後に残ったのは、家族と、翠と、エリーだけだった。


キッチンでセシルが食器を片づけている。

父はルルと何か話している。

翠は廊下に立ったまま、古い映像の箱を抱えていた。


エリーが隣に来る。


「……今日、よかった」


「うん」


少し間があいてから、エリーが言う。


「俺、実家……久しぶりに顔出そうかな」


翠はエリーの横顔を見た。

エリーは照れたように笑い、視線を逸らす。


「こういうの、いいなって思った」


翠はただ頷いた。


部屋へ戻る前、翠はもう一度だけ、

映像の中の少年を思い出した。


サンドロ。


名前だけが、胸の奥で小さく鳴る。

翠は箱を棚に戻し、灯りを一つ消した。


その夜、家は静かだった。

静かなまま、次の音のために息をしているようだった。


——つづく


第3話を読んでくださりありがとうございます。


この回では、翠の過去の音楽と、ある名前が静かに現れます。

そしてもうひとつ。

家の温度が、エリーの中で小さな変化を生み始めています。

物語はまだ、動き出す少し手前です。

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