第33話 「春の気配」
シーズン1の最終話です。
パリの朝を歩く二人──
昨夜の余韻と、まだ名前のない気持ち。
そして、エリーの“記憶の空白”に触れる静かな回となりました。
華やかな告白も、大きな事件もありません。
ただ、春の気配とともに、
二人の距離が“音のように”静かに近づいていく一話です。
エリーにとって、久しぶりの休日だった。
東京から急遽パリへ呼び戻され、
そこからロンドンで代打のステージに立ち、
昨夜は自分のソロライブ──
息をつく間もない数日だった。
その隙間に、翠が転がり込んできた。
朝のパリは、思っていたより静かだった。
空気はまだ冷たいのに、光だけはやわらかい。
エリーは「散歩しよう」と言った。
セーヌに向かって歩く。
川へ下る石畳は、観光客もほとんどおらず、
街は目を覚ましたばかりのようだった。
翠にとって、パリは“昔”ではない。
少し前の自分の影が、
まだ街角に残っている場所だ。
父と、再婚相手のセシル。
腹違いの妹ルル。
13歳まで暮らしていたパリなのに──
今朝は、エリーと並んで歩くだけで、少し違って見えた。
セーヌから少し入ったところにある、古い石壁のカフェに入った。
静かな空間に、二人の呼吸がふわりと馴染んでいく。
エリーはエスプレッソを頼み、
カップを手にしたまま、ぽつりとこぼす。
「今日はさ……なんか不思議なんだよ」
翠は黙って、続きを待った。
「昔のことが、思い出されるんだ」
事故に遭い、退院した日のことだった。
実家へ向かう車の中で、パリの街が窓の外に広がっていた。
「……なんて綺麗なんだろうって思った」
照れたように笑い、一口すすって続ける。
「変だろ?何度も見たはずなのにさ。初めて見る景色みたいで」
喉の奥で静かに息をつき、エリーは言った。
「だって、全部……忘れてたから」
胸に落ちるような静けさだった。
「だから、あの日が俺の出発点なんだと思う。ここと、今のこの街が」
翠は何も言わず、そっと手を伸ばした。
エリーの手の甲に、指先で触れる。
それ以上は覗かない。
ただ、そこにいて寄り添う。
それだけ。
エリーはその指に目を落とし、小さく息を整えた後で、ふっと笑った。
「……でもさ。
今日歩いてて思ったんだ。
お前がいるパリも、悪くないなって。」
その言葉は、ゆっくりと翠の胸に広がった。
熱でも痛みでもなく、昨夜の名残でもなく──
ただ、やさしく触れてくる光みたいだった。
言葉が追いつかない。
胸の奥だけが先に跳ねる。
だから、
翠は少し誤魔化すように口を開いた。
「……なんか、変だな」
エリーと歩くパリが、ちょっと……新しい匂いがする」
エリーの目が、ほんの少し丸くなる。
すぐに、やわらかい笑顔に変わった。
今まで見たエリーの中で、いちばんやさしい笑顔だった。
翠はどきりとして、思わず視線をそらした。
そのとき、携帯が震えた。
《お兄ちゃん、エリーも連れて、今晩ご飯に帰ってきてね。 ルル》
画面を覗き込んだエリーが微笑む。
「ルルに、会いたいな」
そう言って、翠の頬に、軽く、迷いのないキスを落とした。
約束も、未来も、まだ語られない。
でも、それで十分だった。
パリの街には、まだ冷たさの残る風が流れている。
その奥から、かすかな春の匂いが近づいてきていた。
二人の歩幅がそっと揃う。
春はもう、ここまで来ていた。
——つづく
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
静かな物語に、そっと寄り添っていただけたことが、何よりうれしいです。
これでシーズン1は終わりですが、
ふたりの歩みはまだ続きます。
まもなくシーズン2も始まりますので、
また覗きに来てもらえたら嬉しいです。
(作者メモ:
書きながら、ふたりの温度が少しずつ変わっていくのを感じました。
次の章も、ゆっくり丁寧に描いていきますね。)




