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第32話 「朝の音がひらくもの」

初めて一緒に迎える朝です。


光ではなく“音”で目を覚ます翠。

モーツァルトの夢、昨夜のブラームスの余韻、

そしてエリーのふと零れた優しさ──

すべてが静かに重なっていきます。


“触れた夜の続き”を、

朝の空気で描きました。


最初に届いたのは、光ではなかった。

音だった。

低く、静かなギターの音。

輪郭のあいまいな旋律が、まだ眠る空気をゆっくり揺らしている。

どこかで聴いたことがある。

けれど、すぐには思い出せない。


翠は、その揺れに身を預けながら夢を見ていた。

白い空間。

高い天井と、やわらかな残響。

白いローブの少年たちが並び、透きとおる声で歌っている。

合唱の中央には、ひときわ静かな青い瞳の少年がいた。

その旋律は、モーツァルトのミサ曲のソロだった。

祈りのようで、光のようで、なのに、どこか痛いほど孤独だった。


——この孤独、どこかで知っている。


そう思った瞬間、夢がほどけていく。


翠はゆっくりと目を開いた。


すぐ目の前に、顔があった。

エリーだった。


朝の光を受けた瞳は、夜よりもやわらかい。

喉もとには、まだ眠気と熱の名残。

その穏やかさに胸がひどくざわつき、翠は思わず、そっと目を逸らした。


「やっと、お目覚めですか」


低い声のあと、額に、ふわりとキスが落ちた。


触れたというより、自然な優しさがかたちになって触れたような──

そんなキスだった。


翠は胸の奥がびくりと跳ね、

「……おはよう」と声より先に息がこぼれた。


「おはよう」


エリーは黒いスウェットの上下を手にしていた。


「これ、着て。服、ないだろ」


翠はバスローブの胸元をぎゅっと押さえたまま、小さくうなずく。

隠しているつもりなのに、隠しきれない。

そんな感覚が身体の奥をざわつかせる。


スウェットは少し大きくて、袖が手の甲にかかる。

その“借り物”のやわらかさが、逆に昨夜の記憶を呼び起こし、落ち着かない。


エリーの手つきは、いつになくゆるんでいた。

まるで、昨夜ふたりで触れたブラームスの “あの一節” が、

まだ心のどこかに残っているかのように。


翠は視線をそらしたまま、ふと言った。


「……さっきの曲、モーツァルト?」


エリーはコーヒーを淹れながら、小さく笑う。


「よく分かったな」


「夢……見てた。

 合唱で、青い瞳の……なんていうか……」


そこまで言って、翠は言葉を失う。

説明より先に、胸の奥がきゅっと締まった。


「……うまく言えない」


「言わなくていい」


その言い方には、昨夜から続く“ほどけた部分”がそのまま残っていた。


コーヒーの香りが部屋に広がる。

エリーがカップを二つ持ってきて、ソファに並んで座る。


言葉は少ない。

でも沈黙は、もう怖くなかった。


エリーの横顔は、何かをゆっくり噛みしめているようだった。

ブラームスの旋律に潜んでいた “行き先”──

それをようやく自分の中で認めているような、そんな優しい影があった。


翠はスウェットの袖を指先で弄びながら思う。


音で目が覚めて、夢を見て、こうして、同じ朝にいる。

ただそれだけなのに、胸の奥が、静かに満ちていく。


窓の外で、パリの朝がゆっくり動き始めていた。


——音は、まだ続いている。

弾いていなくても、歌っていなくても。

ここにいる、というだけで、

何かが静かに、確かに始まっている。


エリーもまた、流れ着いた場所を確かめるように、そっと目を閉じていた。


——つづく


翠にとっても、エリーにとっても、

“音で始まる朝”は特別な意味を持ちます。


防御のほどけたエリーの表情と、

うまく言葉にできない翠の戸惑い。

それでも同じ朝にいるという事実が、

ふたりの距離を静かに深めていきます。


次回はいよいよ、シーズン1の最終話となります。

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