第8話 遠くで鳴るもの 〜その音は、こちらを見ている〜
——音は、遠くでも鳴っている。
触れていなくても、
確かにそこにあるものがある。
それが何か、
まだはっきりとは見えない。
次の日から、翠の生活は少しずつ変わっていった。
朝、目を覚ますと、まず身体の状態を確かめる。
肩に熱が残っていないか。
手首に違和感はないか。
指先の感覚は鈍っていないか。
ピアニストにとって、身体は楽器だった。
冷たい水で腕を冷やし、エミリア特製のハーブオイルを塗り込む。
アルニカ、ラベンダー、ローズマリー。
強い香りが皮膚の奥へゆっくり入り込み、熱を持った筋肉を静かに解いていった。
「無理はしていいけど、壊しちゃだめよ」
エミリアはそう言って、翠の肩を軽く叩く。
毎朝のバーレッスンも、以前よりずっと厳しくなった。
「今日はストレッチの日〜」
その言葉を聞いた瞬間、翠は露骨に嫌そうな顔をする。
「いやだ」
「だめ〜」
エミリアは笑顔のまま容赦がない。
脚を開かれ、背中を押され、肩甲骨を剥がすみたいに伸ばされるたび、ガラス張りのスタジオには翠の悲鳴が響いた。
「待って、本当に痛い……!」
「呼吸止めない!」
「無理……死ぬ……!」
新聞を読んでいたシルヴァーノが、時々肩を震わせて笑っている。
けれど、不思議なことに、終わったあとの身体は驚くほど軽かった。
肩が開く。
背中が呼吸する。
腰の奥に詰まっていた重さが、いつの間にか消えている。
そのままピアノへ向かうと、音が変わる。
以前よりも、もっと深い場所で響く。
音は、指先だけで鳴るものじゃない。
身体全体で受け止め、通り抜けていく。
庭のレモンも、少しずつ色づき始めていた。
朝になると、エミリアは収穫したばかりのレモンを絞り、大きなガラス瓶いっぱいに自家製のレモネードを作る。
炭酸水の細かな泡の中へ、蜂蜜とミントの香りが溶けていく。
練習を終えた身体に、その酸味は驚くほど心地よかった。
「夏ねぇ」
テラスで笑うエミリアの髪を、ローマの乾いた風が揺らしていく。
季節が移り変わるにつれ、シルヴァーノから与えられる課題も少しずつ変化していった。
最初はほとんど首を振られていた。
ようやく「まぁいい」が出るようになり、
時々短く「よし」と言われるようになる。
けれど、毎週月曜日のマタイ受難曲だけは違った。
何を持って行っても、シルヴァーノは満足しない。
「まだ浅い」
それだけだった。
数ヶ月が過ぎた頃、
シルヴァーノは、歴史あるイタリアのコンクールに、翠をエントリーしていた。
「受けてこい」
人前で弾くことには、まだ強い抵抗があった。
視線。
ざわめき。
空気。
それだけで身体が硬くなる。
けれど、奇跡を起こしたい。
その気持ちだけを抱えたまま、翠は舞台へ向かった。
最後の和音が落ちた瞬間、会場は一拍遅れて沸き上がった。
スタンディングオベーションの中、眩しい照明と歓声が降り注ぐ。
翠は、それをどこか遠くの出来事みたいに聞いていた。
結果は三位だった。
インタビューでは緊張してほとんど言葉が出てこず、その不器用さごと妙に観客の印象へ残ったらしい。
“東洋の王子”
“ミステリアスな天才”
そんな言葉が並び始める。
その頃から、シルヴァーノの課題にはショパンが増え始めた。
「もっと溺れろ」
シルヴァーノはそう言った。
ヨーロッパ各地のコンクールに少しずつ挑戦するようになった頃、翠は久しぶりにパリの家へ戻った。
ルルが嬉しそうに言う。
「お兄ちゃん、今晩コンサート行くからね」
連れて行かれたのは、今ヨーロッパで最も注目されている若手ピアニストのリサイタルだった。
ジュリアン・ローラン。
舞台へ現れた瞬間、空気が変わる。
圧倒的な技巧。
暴力的なまでの推進力。
これほどの難曲を、一晩で崩さず弾き切れる人間が世界に何人いるだろう。
翠は、自分とは真逆の音だと思った。
けれど、目を離せない。
強い。
暗い。
そして、どこか壊れている。
この音は、どこから来るのだろう。
最後の曲が終わり、会場が総立ちになった瞬間、翠の視線はある一点で止まった。
ジュリアンの右手。
照明の下で、緑の石だけが静かに光っていた。
視線は、そこから動かなかった。
シーズン4。
音は、少しずつ外へ広がり始めている。
けれど、
すべてが繋がったわけではない。
まだ、
遠くで鳴っている。




