第9話 触れない距離 〜それでも、届いている〜
——距離は、消えない。
けれど、
触れなくても届くものがある。
その境界は、
まだ曖昧なまま揺れている。
久しぶりに戻った家の食卓は、どこか少しだけ、時間がほどけていた。
父とセシル、ルル。
言葉が重なり、皿の触れ合う音が小さく響く。
昨夜のコンサートの余韻が、まだ身体のどこかに残っている。
ジュリアンの音。
そして、あの指輪。
「翠? ねえ、イタリアの入国、やっぱり許可取れたのね」
セシルが、何気ない調子で言う。
「日本からペットを連れてくるのって、思ってるより大変なのよ。
数ヶ月の待機期間……シュガー、よく頑張ったわね」
そう言って抱き上げられた白猫は、柔らかく身体を預けたまま、静かに喉を鳴らした。
「……ああ、うん」
短く返しながら、翠はその様子を見ていた。
——ロレンツォ。
心の中でだけ、名前を呼ぶ。
ルルが、そっとシュガーの頭に触れる。
「ねえ、少し大人っぽくなってきたね」
指先が、耳の後ろを撫でる。
「瞳の色も、変わってきた気がする。エメラルド……そういう色かな」
光の角度で、わずかに深みを帯びる緑。
翠は一瞬だけ視線を逸らした。
「……綺麗」
ルルの言葉に、誰も何も足さなかった。
静かなまま、時間が流れる。
「そうだ、翠」
セシルが思い出したように口を開く。
「そろそろ、きちんとエージェントをつけた方がいいと思ってね。
シルヴァーノ先生とも相談して、ひとまずお願いしてあるの」
カップを置く音が、やけに小さく響いた。
「午後に来るわ。担当の人」
「……どんな人?」
少しだけ間を置いてから、翠が聞く。
セシルは肩をすくめた。
「明るい子よ。あと、体力がある」
それだけ聞いて、翠は曖昧に頷いた。
安心と疲労が、同時にの残る。
最近、結果は出ている。
コンクール、招待、演奏会。
名前が呼ばれる機会が増え、
それに伴って、知らない人間も増えていく。
必要だとわかっていることほど、
距離を測るのが難しい。
食後、自然と足はピアノへ向かっていた。
昨夜のリスト。
譜面を開く。
なぜ、あの箇所であれほど押したのか。
だが、崩れてはいなかった。
むしろ、流れは保たれたまま、
別の方向へ引きずられていた。
指を置く。
音が、ひとつ落ちる。
乾いた透明。
続けて、音を重ねる。
跳躍。
連打。
鋭い輪郭。
空気の温度が、わずかに変わる。
速く。
さらに遠くへ。
指が追いつく前に、
音だけが先へ進んでいく。
呼吸が浅くなる。
そのときだった。
背後で、
不意に拍手が鳴った。
「ブラーヴォ!」
身体がわずかに揺れる。
「ブラーヴィッシモ!」
現実の音が、
演奏の内側へ割り込んでくる。
翠は振り返った。
見慣れない青年が立っている。
黒のシャツ。
胸元には、金のメデューサ。
過剰なほどに光を反射していた。
細身のパンツ、整えられた髪、強い香り。
「アランです」
自然に手を差し出してくる仕草が、
どこか一拍早い。
後ろから、セシルの声が重なった。
「もう、急に入らないでって言ったでしょう」
小さくため息をついてから、
「翠、エージェントのアランよ。コーヒー、リビングで」
ソファに座ると同時に、アランは言葉を滑らせた。
「いや、本当に良かった。前から聴いてたけど、毎回ちゃんと変わるね。ああいうの、なかなかいない」
言葉は軽い。
だが、音は逃していない。
翠は短く頷く。
カップに蜂蜜を落とし、ミルクを足す。
甘さが、ゆっくりと広がる。
「改めて。Alain Bernard。今日から君の担当になる」
タブレットを操作しながら、続ける。
「明日からベルリン。二週間。シルヴァーノとも現地で合流。レッスンと、小規模のコンサート」
唐突な予定に、言葉が少し遅れる。
「……明日?」
「そう」
迷いなく頷く。
「あと衣装。セシルさん、演奏用のものって——」
「あ、そういえば」
セシルが立ち上がる。
「ウィーンから荷物が届いてたの。翠宛」
箱が運ばれる。
開けると、中にもうひとつ、黒い箱。
蓋を持ち上げる。
最初に現れたのは、一輪の鈴蘭だった。
押し花にされた、小さな白。
添えられたカード。
——初めての優勝、おめでとう。
E
指先が止まる。
それ以上、何も書かれていない。
だが、それで十分だった。
横から覗き込んだアランが、思わず声を漏らす。
「これ……Knizeだ」
箱の中には、燕尾服一式。
深い黒。
光を抑えた生地。
胸元に、小さく刻まれたイニシャル。
「着てみなさいよ」
セシルの声は、少しだけ柔らかかった。
袖を通す。
布が、自然に身体へ沿う。
まるで、最初からここにあったように。
鏡の中の自分を、しばらく見ていた。
黒の上に、鈴蘭の白が落ちている。
遠く離れているはずの距離が、
なぜか、曖昧になる。
触れていないのに。
呼吸だけが、近い。
シーズン4。
それぞれの場所で鳴っていた音が、
少しずつ近づき始めている。
けれど、
まだ重なりきらない。
その距離の中で、
何かが確かに届いている。




