第7話 天使の歌声 〜それは、失われた声〜
——音は、ときに人になる。
姿よりも先に、
その存在だけが触れてくる。
それが誰なのか、
気づいたときには、
もう戻れない。
夕食のあとだった。
「ちょっと見せたいものがある」
シルヴァーノはそう言って、
ワインを二つ注いだ。
片方を翠へ渡す。
深い赤が、グラスの中で、小さく揺れている。
「おいで」
翠は、
シルヴァーノの後をついて、
ピアノ室の奥へ向かった。
ビブリオテーク。
本に囲まれた静かな部屋。
大きなソファと、
壁いっぱいのスクリーン。
夜になると、
ここはまるで小さな映画館みたいだった。
シルヴァーノが、
古い映像を再生する。
ざらついたノイズ。
揺れる画面。
薄暗い教会。
パイプオルガンの響きが、
静かに空間を満たしていく。
モーツァルト。
——Ave verum corpus.
その瞬間だった。
少年の声が響く。
翠の視界が、
一瞬で滲んだ。
一音。
たったそれだけで、
胸の奥が裂ける。
この世にあるのか。
息ができない。
画面はまだ揺れている。
古いホームビデオなのだろう。
ぼやけたパイプオルガン。
誰かの笑い声。
遠くで椅子の軋む音。
そして、
ようやくカメラの焦点が、
少年へ合う。
白い衣装。
揺れる画面。
少年が、
ほんの少し微笑む。
その瞬間、
翠の呼吸が止まった。
——あの刺繍の子だ。
脳裏に、ウィーンの子供部屋が蘇った。
淡い光。
棚に並ぶ古い絵本。
そして、
エリーが少し照れた顔で差し出した、
小さな楽譜鞄。
「母が作ったんだ」
恥ずかしそうに笑っていた。
端には、
小さなてんとう虫。
その隣に、
金糸で縫われた名前。
Elias。
そして中央には、
幼いエリーの顔を模した刺繍。
「結局、恥ずかしくて一回も使わなかった」
そう言って笑った横顔と、
画面の中の少年が、
まったく同じだった。
翠は、
思わず立ち上がる。
けれど、
すぐまた座り込んだ。
胸が痛い。
画面の中で、
少年エリーは、
まだ何も失っていない声で歌っている。
透き通るような、
けれど、
どこか触れれば壊れてしまいそうな声。
あの刺繍は、
この瞬間を閉じ込めていた。
初めて、そう思った。
少年の横顔
演奏が終わる。
けれど、
オルガンの後奏が、
耳へ入ってこない。
映像だけが、
ざらざらと流れ続けている。
しばらくして、
シルヴァーノが小さく言った。
「これが、
モーツァルトだ」
翠は、
うまく呼吸ができなかった。
涙を拭う。
ようやく、
絞り出す。
「……もう一回」
シルヴァーノは何も言わず、
もう一度再生した。
翠は、
食い入るように画面を見つめる。
聞こえない音まで、
拾おうとするみたいに。
凄い。
そんな言葉しか、
出てこない。
映像が終わったあとも、
翠はしばらく動けなかった。
やがて、
ぽつりと呟く。
「先生」
声が震える。
「僕、
酷いことをした」
シルヴァーノは黙っている。
「この声を知らなかった」
翠は、
自分の左耳へ触れる。
「だから、
ヴェルデヴェーレで……」
言葉が途切れる。
「全部捨てて、
一緒に逃げてくれって言われた時、
言わないって、
言っちゃったんだ」
静かな夜だった。
遠くで虫が鳴いている。
「エリー、
記憶を取り戻してるなら、
この声のことも、
思い出してるはずなんだ」
翠は俯いた。
「こんな声を失うって」
「あの時の僕、
何もわかってなかった」
喉が詰まる。
「……助けを求められてたのに」
シルヴァーノは、
しばらく何も言わなかった。
それから、
静かに口を開く。
「それで良かったんだ」
翠が顔を上げる。
「翠は、それで良かった」
夜風が、
カーテンを揺らす。
「現に、そのあと、エリーは京都へ来たんだろう」
翠は黙って頷いた。
シルヴァーノが、
グラスをゆっくり回す。
「この前、リヒテンヴァルト家の名前を聞いて、正直驚いた」
少し笑う。
「プロポーズのあと、
ウィーンへ演奏旅行へ行っていた」
映像を見つめる。
「あの教会で、
二人でキスしてた」
翠は少し笑った。
「そしたら、
突然ゲネプロが始まってな」
パイプオルガン。
少年たちのざわめき。
「ウィーン少年合唱団だった」
シルヴァーノは肩を竦める。
「エミリアが、
日本製のハンディカメラ買ったばっかりで」
笑う。
「何も考えず、撮ってた」
映像の中で、
少年エリーが歌う。
透き通る声。
まだ何も失っていない、
光そのものみたいな響き。
「でも、
あとから気づいた」
シルヴァーノは、
翠を見る。
「これは、
残さなければならない音だと思った」
静かな声だった。
「お前に、
聞かせたかった」
そして、
小さく笑う。
「これこそ、
モーツァルトなんだ」
翠は、
何も言えなかった。
胸の奥で、
あの声だけが、
まだ鳴っている。
シルヴァーノが立ち上がる。
大きな手で、
翠の頭を乱暴に撫でた。
「翠」
その声は、
どこか優しかった。
「彼を幸せにしたいんだろ」
翠は、
静かに頷く。
「なら、
奇跡を起こせ」
その言葉だけが、
夜の静かな部屋へ、
深く残った。
あの声だけが、まだ鳴っている。
シーズン4。
音は、過去と現在を結び始めている。
けれど、
まだひとつにはならない。
そのあいだで、
記憶が少しずつ戻ってくる。




