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第6話 薔薇、百合、春、緑 〜身体が先に知っている〜

——音は、形の前に身体へ触れる。


理解するより先に、

動いてしまうものがある。


それが、

どこから来ているのかは、

まだわからない。



朝のバーレッスンの時間だった。


けれど、

今日はシルヴァーノの姿がない。


ガラス張りの窓から、

柔らかな朝の光だけが差し込んでいる。


エミリアが、

バーへ軽く手を置いたまま翠を見る。


「ねえ、翠」


少し笑う。


「ここ数日、

何度も弾いてるでしょう?

あのマショー」


翠は頷いた。


「弾いてくれない?

なるべく、ゆっくり」


翠は静かにピアノへ向かった。


椅子へ座る。


息を吸う。


指を置く。


ギヨーム・ド・マショー。


四声のロンド。


古い響き。


けれど、

どこか土の匂いがする音楽だった。


翠は、

一音ずつ確かめるように弾き始める。


ゆっくり。


慎重に。


すると、

エミリアが動き出した。


最初は、

ほんの小さな揺れだった。


風に触れる花びらみたいに、

静かな動き。


白い腕が開く。


首筋が傾く。


呼吸が、

空間へ滲んでいく。


薔薇が、

開いていく。


翠は、

危うく手を止めそうになる。


あまりにも美しい。


けれど、

次の瞬間、

エミリアの身体が急激に熱を帯びる。


リズムが変わる。


三拍子のはずなのに、

足場が揺れる。


前へ進むのに、

どこか引き戻される。


複雑な回転。


鋭い重心移動。


生き物みたいな動きだった。


音が引っ張られる。


指が、

踊りに持っていかれる。


翠の呼吸まで変わっていく。


動きの方が、

先に音を知っている。


翠の指は、

あとからそれを追いかけていた。


何かが聞こえる。


歌?


誰の?


わからない。


でも、

身体の奥で、

ずっと誰かが歌っている。


酔っていた。


音なのか、

幻なのか、

もう境界が曖昧だった。


気づくと、

エミリアは静かに床へ沈み込み、

大地と一つになっていた。


遠くで鳥が鳴く。


翠は、

そこで初めて息をした。


身体が熱い。


エミリアが、

サンペレグリノの緑色の瓶を開ける。


細かな泡の音。


グラスへ水を注ぎ、

一つを翠へ差し出した。


自分は、

二杯続けて飲み干す。


「はぁ……」


笑う。


「懐かしいわ」


翠はまだ、

うまく喋れなかった。


喉を通る炭酸が、

熱を冷ましていく。


エミリアが窓の外を見る。


「このマショーね」


少し遠い声だった。


「昔、

恋人が振り付けしてくれたの」


翠は顔を上げる。


「まだ私が、

オペラ座の研究生だった頃」


朝の風が、

白いカーテンを揺らした。


「この曲を踊って、

初めて認められたの」


エミリアは笑った。


「翠が弾いてるのを聞いて、

久しぶりに踊りたくなっちゃった」


少しだけ肩を回す。


「でも、

もうだめね」


冗談っぽく笑う。


「若い頃みたいなキレは出ないわ」


けれど、

翠にはわかった。


さっき、

空間そのものが、

エミリアの呼吸になっていた。


「音は、身体なのよ」


エミリアは、

自分の胸へ手を当てる。


「鼓動で、

呼吸で、

記憶なのよ」


窓の外で、

百合が揺れる。


「このリズムって、

繰り返されるたび、

昔の感情を呼び起こすの」


静かな声だった。


「誰のものでもない記憶が、戻ってくる」


翠は、

何も言えなかった。


自分の演奏していたものが、

ただ綺麗に整えただけだったことを、

身体で、理解し始めていた。


音は、

分析するだけじゃ足りない。


身体を通って、

初めて生き始める。


エミリアは、

翠の頬へ軽くビズをした。


「ありがとう。

久しぶりに、

恋してた頃を思い出したわ」


そう言って、

静かに部屋を出ていく。


午後のシルヴァーノのレッスンでは、

中世からルネサンスの課題を見せた。


ギリギリ合格。


そんな感じだった。


「まだ浅い」


シルヴァーノは、

楽譜を閉じる。


「詩を聞け。

歌を聞け」


翠は黙って頷いた。


「音の後ろに、

まだ人間がいる」


夕食のあと、

エミリアが小さなデザートを作ってくれた。


柔らかなバニラアイス。


そこへ、

古いフランスのリキュールを少しかける。


甘い香り。


アルコールの熱。


「ギヨーム・ド・マショーに乾杯」


エミリアが笑う。


グラスが小さく鳴る。


翠は目を閉じた。


すると、

あのロンドが、

また身体の奥から聞こえてきた。


踊りと、歌と、呼吸が、まだ続いていた。


まだ、続いている。



シーズン4。


音は、少しずつ身体へ戻り始めている。


けれど、

まだ完全には重ならない。


そのあいだで、

何かが生まれている。


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