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第5話 触れる前の距離 〜音は、まだ重ならない〜

——音は、重なる前に揺れる。


近づくほど、

触れられないものがある。


それでも、

手を伸ばしてしまう。



シルヴァーノは、しばらく何も言わなかった。


窓の外を見たまま、静かに座っている。


すいは、

自分の呼吸の音だけを聞いていた。


この一週間、

十通りのマタイを作り続けた。


短いもの。

長いもの。

コラールだけを残したもの。

旋律を崩したもの。

群衆を際立たせたもの。

祈りを削ったもの。


何時間もかけて、翠は弾き続けた。


ようやく、シルヴァーノが口を開く。


「どれも弱いな」


翠の肩が、わずかに止まる。


シルヴァーノは、しばらく譜面を見ていた。


「綺麗だ。よく出来てる」


その声は穏やかだった。

だからこそ、余計に刺さる。


「だが、まだ鳴っていない」


沈黙。



翠は何も言えない。


シルヴァーノが、もう一台のピアノへ向かう。


鍵盤へ触れる。


低音が、

静かに空気を押した。


その瞬間、

部屋の温度が変わる。


次の和音が来る前に、

翠の呼吸が止まる。


音は少ない。


けれど、

何かが、

深い場所から立ち上がってくる。


人の声。


叫び。


痛み。


言葉になる前の、

もっと古い何か。


気づけば、

翠の頬を涙が流れていた。


シルヴァーノは演奏を止める。


「お前は、もっと遠くまで行ける」


翠は俯いたまま、

鍵盤を見つめていた。


「まだ、何かに囚われてるな」


その大きな手が、

翠の背へ静かに触れる。


「稽古しろ」


それだけ言って、

シルヴァーノは立ち上がった。


「課題は継続だ。

来週もう一度聴かせろ」


そして、

棚から古い楽譜を数冊抜き取る。


「今週は、

中世からルネサンスだ」


翠は楽譜を受け取る。

羊皮紙の匂いがした。


その時、

エミリアが顔を覗かせる。


「そろそろご飯にしない?」



夕食は、

たっぷりのハーブと一緒に煮込んだ鶏料理だった。


トマトの香りが濃いパスタ。

焼いたパン。

オリーブオイル。


温かい湯気。


エミリアの笑い声。


身体の奥が、

少しずつ解けていく。


食後、

翠はそのまま自室へ戻った。


先生のマタイ。


あれは、

なんだったのだろう。


構造でもない。

もっと、

別の何か。


翠は、

ふと昔弾いた曲を思い出す。


鍵盤へ指を置く。


バッハ。

イタリア協奏曲。


最初のリズムが、

部屋を明るくした。


軽やかな音。

跳ねる呼吸。


トマトソースの匂いが残るローマの夜と、

その音は、

どこか似ていた。


あの頃、

この曲を弾くと、

どこまでも走っていける気がした。


シルヴァーノは笑って言った。


——なんて輝かしい光の音だ。



翠はゆっくり目を閉じる。


僕が、

ピアノを好きになったのは、

いつだったんだろう。


パリへ来たばかりの頃。

セシルに連れて行かれたレッスン。


自分の前の生徒が、

この曲を弾いていた。


初めて聴いた瞬間、

世界が開いた。


暗かった場所へ、

突然光が入ってきたみたいだった。


その後、

「何か弾いてみて」と言われ、

翠は、

さっき聴いた音を真似して弾いた。


セシルも先生も、

驚いた顔をしていた。


一度で、覚えていた。


そのままローマへ連れて来られ、

シルヴァーノと出会った。


あの時も、

自分で作った曲と、

イタリア協奏曲を弾いた。


楽譜も見ずに。


あの時の気持ちは、

なんだったのだろう。



夜風に当たりたくなって、

翠はテラスへ出た。


シルヴァーノが、

月を見ていた。


「翠、おいで」


エミリアが、

冷えたリモンチェッロを持ってくる。


凍る直前まで冷やされた酒は、

少しとろみがあった。


甘い。


けれど、

後から苦味が追いかけてくる。


翠は、

シルヴァーノの隣へ腰を下ろした。


しばらく、

誰も喋らない。


虫の声だけが、

遠くで続いている。


突然、

シルヴァーノが聞いた。


「好きなやつは、

どんなやつだ?」


翠は一瞬、

意味がわからなかった。


それから、

そっと左耳へ触れる。


ピアスが、

月明かりを返した。


「……最初、

公園でギターを弾いてたんです」


リモンチェッロを一口飲む。


「それで、

思わずハミングしたら、

目が合って」


シルヴァーノが笑う。


「ほぉ。

ロマンチックだな」


翠も少し笑った。


「そのあと、

セッションして」


静かな声。


「初めて、

人と音を合わせるのが楽しかった」


「名前は?」


「エリー」


「……あの、

エリー・モローか?」


翠は頷く。


「でも本名は、

Elias Gabriel von Lichtenwald」


シルヴァーノの眉が少し動く。


「リヒテンヴァルト家か」


月明かりの下で、

翠は静かに頷いた。


「あの事故は、

こっちでも大きなニュースだった」


風が吹く。


グラスの中で、

レモンの香りが揺れる。


「最近、

話したのか?」


「京都に来てくれた」


「会いに行かないのか?」


翠は答えない。


グラスを見つめる。


「……今のままじゃ、

だめなんだ」


小さな声だった。


「同じ場所に立ちたい」


その言葉に、

シルヴァーノは何も返さなかった。


ただ、

静かに笑った。


「奇跡を起こしたいのは、

そいつのためか」


翠は、

また少しだけ酒を飲む。


答えられない。


エミリアが、

そっと翠を抱きしめた。


「私の坊やも、

少し大人になったのね」


髪を撫でる。


「恋って素敵」


翠は苦笑する。


「僕なら、大丈夫?」


「大丈夫よ」


エミリアは、

当然みたいに言う。


「あんなイタリア協奏曲を弾くんだもの」


シルヴァーノが、

小さく首を振った。


「まだまだだ」


真面目な声だった。


そして、

翠を見る。


「もっと聞け」


夜風が静かに吹く。


「音を出す前も、出した後もだ」


月の光が、

テラスへ落ちる。


「答えは、その中にある」


翠は、

甘く苦いレモンの香りを飲み込んだ。


エリー。


今、

何をしているんだろう。


会いたい。


会いたい、ただそれだけ。


シーズン4。


音は、まだ揃わない。


けれど、

同じ場所を目指し始めている。


その距離は、

少しずつ変わっていく。


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