第4話 身体のかたち 〜音は、まだ揃わない〜
——音は、すぐには揃わない。
身体が先に覚え、
あとから音が追いつく。
その逆もある。
どちらも、まだ途中にある。
庭のテラスには、朝の光がゆっくり広がっていた。
搾りたてのオレンジジュース。
いちじくと胡桃を練り込んだ焼きたてのパン。
チーズと生ハム、
ルッコラのサラダ。
自家製ヨーグルト。
白い泡の立ったカプチーノ。
シュガーは、当然のように翠の隣の椅子を占領している。
エミリアの明るい声を聞きながら食べる朝食は、それだけで一日の空気を変えた。
風が吹く。
庭のローズマリーが揺れる。
ローマの朝は、
光より先に香りが届く。
朝食のあと、翠はピアノへ向かった。
基礎練習。
この時間が好きだった。
単純なスケールを、
ゆっくり弾き始める。
小指が少し硬い。
中指の動きが鈍い。
昨日の疲れが、
まだ肩の奥に残っている。
指先の感覚を確かめながら、
少しずつ速度を上げていく。
リズムを変える。
音形を崩す。
また戻す。
一時間ほどして、
今度は短い練習曲を丁寧に弾き始めた。
音の位置を探る。
鍵盤の深さを確かめる。
難曲を自由に弾くためには、
まず、一音ずつ身体へ落としていく。
コンコンコン。
ドアが軽く鳴る。
エミリアだった。
大きなグラスを二つ持っている。
朝摘みのハーブを使った自家製スムージー。
ミント、
バジル、
レモンバーム。
その上に、
レモンのジェラートが少しだけ浮かんでいた。
「休憩」
翠はグラスを受け取る。
冷たさが、
熱を持ち始めた身体へゆっくり広がる。
ハーブの青い香りが、
肺の奥まで抜けていった。
「さ、そろそろ始めるわよ。
私の坊や」
そう言って、
エミリアは翠の額へ軽くキスを落とした。
ピアノの稽古場の隣には、
片側がガラス張りになった広い板間がある。
ここは、
エミリアのための場所だった。
エミリアは、
もともとバレリーナだった。
翠がここへ来た頃には、
すでに舞台を降りていたけれど、
毎朝のバーレッスンだけは欠かさない。
翠も十歳の頃から、
毎朝一緒にやらされていた。
最初は嫌だった。
けれど、
今では、
身体がこの時間を求める。
端に置かれたアップライトピアノから、
ゆっくりした旋律が流れ始める。
シルヴァーノの演奏だった。
「鏡を見て、翠。
今日の自分にチャオ、よ」
息を吸う。
吐く。
プリエ。
ゆっくり沈む。
アキレス腱が伸びる。
太腿の内側が熱を持つ。
「下向かない〜
顎はまっすぐ〜
そして、スマ〜イル」
エミリアの動きは美しかった。
まるで、
身体の外側にも神経が伸びているみたいに、
空間まで滑らかに動く。
翠の身長はずいぶん伸びてしまった。
それでも、
姿勢と立ち方だけは、
エミリアに叩き込まれたものが残っている。
伴奏がショパンへ変わる。
ロマン派の濃さが少し重かった。
けれど、
シルヴァーノが弾くショパンだけは違う。
回転へ入る直前、
音が先に身体を押し出す。
最後の回転が遅れないよう、
ピアノが、
ほんのわずかに呼吸を引っ張る。
音と身体が、
一瞬だけ完全に重なる。
十年続いたこの朝の練習は、
翠のピアノにも深く残っていた。
「素敵よ、翠」
エミリアが笑う。
「きっと、王子様を見つけたのね」
ウインクを残して、
そのまま部屋を出ていった。
王子様。
翠は、
鏡の中の自分を見る。
光が揺れる。
左耳のピアスだった。
そっと触れる。
今日は、
いよいよ課題を弾く日だった。
奇跡を起こしたい。
鏡の向こうの自分は、
まだ何も知らない顔をしている。
まだ、揃っていない。
シーズン4。
音は、少しずつ重なり始めている。
けれど、
まだひとつにはならない。
それぞれの場所で、
続いている。




