第3話 呼吸の場所 〜音は、まだ内側にある〜
——音は、消えない。
外で鳴るものもあれば、
内側で続くものもある。
それが、
どこで鳴っているのか。
まだ、わからない。
第3話
鳥の声で目が覚めた。
リネンのシーツが、まだ夜の冷たさを少し残している。
シュガーはいつの間にか翠の枕を占領していた。
窓を開ける。
風が、レモングラスの香りを運んできた。
朝六時。
翠はゆっくり肩を回し、長く息を吐く。
それから、Tシャツとスウェットに着替えた。
石造りの床を素足で踏みながら、キッチンへ向かう。
冷たいミルクをコップ一杯飲み干し、そのまま外へ出た。
庭を抜ける。
森を抜ける。
やがて、古い街道へ出る。
ローマ人が築いた石の道。
赤い土と茶色い土が、朝露を吸ってわずかに湿っていた。
翠は空を見上げる。
白い月が、まだ薄く残っている。
両腕を伸ばす。
背筋がゆっくり開いていく。
昨日より、身体が軽かった。
歩き始める。
花の香り。
鳥の声。
水の音。
葉が擦れ合う音。
世界が、静かに呼吸している。
その奥で、ずっと音が鳴っていた。
消えない。
頭の中ではなく、
もっと深い場所で続いている。
マタイ受難曲。
ローマに戻っていた。
数日だけパリへ寄った。
ルルにキーホルダーを届け、
セシルと父と食事をして、
そのまま、ほとんど休まずローマへ向かった。
空港へ迎えに来たエミリアは、
翠を見るなり抱きしめた。
「私の坊や」
その声が、
妙に懐かしかった。
アトリエへ戻った夜、
翠はシルヴァーノに言った。
もう一度、本気でピアノをやりたい。
シルヴァーノは少し笑った。
「本気って、どこまでだ」
翠は少し考える。
「……奇跡を起こせるくらい」
沈黙のあと、
シルヴァーノは頷いた。
「なら、まず身体を作る」
食べろ。
眠れ。
歩け。
世界を見ろ。
それから、音だ。
翌朝、
シルヴァーノは一冊の総譜を翠へ渡した。
バッハ。
マタイ受難曲。
厚く、
使い込まれたスコアだった。
「これを読み込め」
翠はページを開く。
紙の匂い。
書き込み。
無数の呼吸。
「十通り作れ」
「……十通り?」
「ピアノだけで弾け。
最短十分。
最長九十分。
好きに壊せ」
シルヴァーノはそれだけ言った。
以来、
毎朝の課題は決まっていた。
一時間のウォーキングとラン。
朝食作り。
指の基礎訓練。
そして、スコアリーディング。
三時間の祈りが、重くのしかかる。
どう、一人の身体へ落とし込むのか。
気づけば、
部屋には書き散らした譜面が積み上がっていた。
翠は走り終えると、軽くシャワーを浴びた。
水の音が、
火照った身体をゆっくり冷ましていく。
キッチンへ向かうと、
エミリアはすでに石窯へ薪を入れていた。
焼き始めたパンの香りが広がっている。
「坊や、おはよう」
また抱きしめられる。
柔らかい腕の温度に、
翠は小さく息を吐いた。
コーヒーを挽く音だけが、残っていた。
音は、まだ内側にある。
シーズン4。
エリーと翠の物語は、ゆっくりと動き始めている。
まだ、音は重ならない。
けれど、それぞれの場所で鳴り続けている。




