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第2話 緑の石〜名を失う願い〜

——音は、残る。

けれど、何かが消えることでしか、残らないものがある。

それはまだ、言葉にはなっていない。


春を迎える前に、

疫病が広がり始めた。


町から町へ。


祈りより早く。


死は、

静かに人をさらっていった。


鐘が鳴る。


またひとつ、

魂が消える。


ピエールは、

人の少ない山道を選ぶようになっていた。


ある夕暮れ。


霧の深い森の中で、

彼は倒れている老人を見つけた。


異国の衣を纏った、

痩せた男だった。


熱に浮かされ、

呼吸は浅い。


けれど、

その腕だけが、

妙に強く、

胸元の袋を抱えていた。


ピエールは老人を見捨てられなかった。


朽ちかけた小屋へ運び、

火を起こし、

水を与える。


夜になると、

老人は苦しそうに呻いた。


その声を聞きながら、

ピエールは、

静かにリュートを手に取る。


音を鳴らした。


小さく。


まるで、

眠りへ寄り添うように。


冬を越えた川の音。


遠い鐘。


風。


誰にも届かなかった、

名もない旋律。


老人は、

薄く目を開いた。


深い皺の奥で、

かすかに笑う。


「……美しい」


掠れた声だった。


「死ぬ前に……

こんな音を聞けるとは」


老人は、

震える指で、

胸元の袋を開いた。


中から現れたのは、

古い指輪だった。


鈍い銀。


そして、

中央には、

深い緑色の石。


光が、底で揺れていた。


「ひとつだけ……

願いを叶える」


老人は、

ゆっくりと言った。


「だが……戻らない」


ピエールは答えない。


老人は、

それ以上何も語らなかった。


翌朝には、

冷たくなっていた。


春が来る頃には、

追手が現れた。


宮廷音楽家ラウル。


地方で時折語られる、

“名もない旅の奏者”の噂を、

ついに聞きつけたのだった。


襲撃は夜だった。


雨。


泥。


森。


逃げる途中、

ピエールは悟った。


もう長くはない。


血の滲む指で、

彼は指輪を握り締める。


何を願うべきか。


富か。


名誉か。


復讐か。


違う。


そんなものは、

もうどうでもよかった。


彼は、

静かに目を閉じた。


そして願う。


どうか。


この音だけは、

消えないでほしい。


この音だけは。


未来の誰かが、

見つけてくれるなら。


その瞬間、

緑の石が、

淡く光を放った。


風が止む。


世界が静まる。


ピエールは、

自分の身体から、

何かが抜け落ちていくのを感じていた。


名。


記憶。


存在。


まるで、

最初から誰も、

彼を知らなかったかのように。


けれど不思議と、

恐ろしくはなかった。


最後に、

彼は微かに笑った。


遠くで、

まだ聴いたことのないピアノの音がした。


音だけが、

残った。


まだすべては、結びついていない。

けれど、音はすでに残っている。

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