Prologue 音の中にいるもの 〜それは、誰のものか〜
——音は、ときに人を連れていく。
どこへ、とは言えない。
ただ、戻ってこられなくなることがある。
これは、そんな夜のはじまりです。
歓声が、波のように押し寄せていた。
音が重なり、会場の奥でほどけずに留まっている。
誰も立ち去ろうとしない。
拍手は途切れず、何度も、同じ波が押し返してくる。
その中心で、ひとりの青年が静かに礼をした。
白い照明の下。
細い身体。
伏せられた睫毛。
熱狂のただ中にいるのに、その姿だけが、不思議なほど静かだった。
ジュリアン・ローラン。
今、ヨーロッパ中がその名を口にしている。
彼の演奏を聴いた者の中には、
数日経っても、その余韻から戻れなくなる者もいる。
心を掴まれる、という言葉では足りない。
一音目で、空気が変わる。
二音目で、逃げ場がなくなる。
呼吸の場所が、わからない。
音は揺れない。
どの音も、同じ場所に落ちる。
一度も外れない。
落ちる、と思った瞬間、支えられる。
崩れる手前で、必ず戻される。
安全なはずなのに、身体だけが、拒もうとしている。
それでも、耳を離せない。
次を、待ってしまう。
*
ほんの数ヶ月前まで、彼は無名の学生にすぎなかった。
パリ国立高等音楽院。
卒業すら危ぶまれていた、目立たない青年。
悪くはない、と言われていた。
だが、それ以上でもなかった。
感情が見えない。
音が残らない。
そう評する声が、どこにでもあった。
ところが卒業試験直前、
ジュリアンは、提出していたプログラムをすべて変えた。
隣り合うはずのない曲が、並んでいた。
静かな祈りのあとに、暴力のような音。
互いを拒むように、音が置かれている。
順番を見ただけで、誰もが顔を上げた。
理解できない。
ただ、それだけが共有されていた。
ついに壊れたのか。
そんな声すらあった。
だが——
最初の音が、空気を裂いた。
遅れて、誰かが息を吸い込む。
音は、一度も揺れなかった。
そのあと、音だけが続いた。
満場一致の最高評価。
開校以来の伝説だと、教授たちは震えながら語った。
新聞も、評論家も、指揮者も、聴衆も。
誰もが、新しい天才の誕生を疑わなかった。
けれど、その夜。
たったひとりだけ、拍手を送れなかった少女がいた。
ニコラ。
ジュリアンと同じ、フランス南東部の小さな山村で育った幼馴染だった。
同じ日に生まれ、
双子のように育ち、
同じ夢を見て、共にパリへ来た。
内気で、不器用で、
人前ではほとんど笑えなかったジュリアンを、いつも隣で支えてきた。
だからこそ、わかる。
違う。
あれは、ジュリアンじゃない。
熱狂の残る楽屋裏。
ニコラは、背を向けたまま立つ青年へ、震える声で問いかけた。
「……あなた、誰?」
返事はない。
ゆっくりと振り返ったその顔に、
見慣れたはずの面影はあった。
けれど、
視線が、合わない。
目の前にいるのに、
どこも見ていない。
「ジュリアンを返して……」
そのとき、
彼の左手がわずかに動いた。
指には、見覚えのない古い指輪。
埋め込まれた緑の石が、
淡く、静かに光っていた。
——その光を、ニコラは見逃さなかった。
シーズン4。
翠とエリーの物語が、ここから始まる。




