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二度と来ない

 馬車の中、王都のグレアムが持っている屋敷に連れて来られるまでずっとフィルの名前を呼んでいたアナスターシアは、屋敷に着くなり、ある豪奢な部屋に入れられた。


 そこのベッドに座らされ、真向かいにはグレアムが椅子を用意して座っている。

 ずっとフィルの名前を呟いていたアナスターシアだが、ふと目の前のグレアムを見た。



 彼は心底嬉しそうな表情をしてアナスターシアをじっと見ていた。それもずっと。

 アナスターシアが気付いていないだけで、きっとこの男は自分を見つめていたのだと思うとアナスターシアは気分が悪くなった。


 今すぐ死んでしまいたいと思った。アナスターシアは自身の舌を思い切り噛んだが、フィルの言葉を思い出した。思い出してしまった。


『アナスターシア……僕の為に生きて、僕も君の為に生きるから』


 涙が止まらなかった。そしてもう彼はこの世にいないのだと、この男に殺されたのだと思うと怒りでおかしくなりそうだった。


 

 突然黙り込み、俯いたアナスターシアを不審に思ったのか、グレアムはアナスターシアの顔を覗き込んできた。


 アナスターシアは今すぐにその憎たらしい顔を引っ叩いてしまいたかったが、ぐっと堪えて睨んだ。

 

 グレアムは涙を零しながら睨みつけてくる彼女の表情に滾った。

 その興奮に身を任せ、グレアムは彼女の口を指でこじ開けた。

 きつく閉じていなかった唇は容易く開いた。


 抵抗しない彼女に気を良くしたグレアムはベッドに彼女を縫い付け、改めて口付けをしようとした。


 しかし、アナスターシアは顔を近づけて来た彼に向かって唾を吐いた。

 グレアムは顔にかかった唾の鉄臭さに、それが血の混じったものだと分かった。

 

 分かった途端、グレアムは血の匂いを嗅いで興奮する獣のようになった。

 グレアムは舌で彼女の口内をこじ開け、彼女の舌から止めなく流れる血を(ねぶ)りとった。


 

 予想と違う反応をしたグレアムに、アナスターシアは焦って顔を背けたが意味をなさなかった。

 フィルとは違う、荒っぽいキスにアナスターシアは不快になった。


 アナスターシアはグレアムの口を軽く叩いた。

 

「やめて、不愉快だわ」

 

 怒りを隠そうともしない鋭い視線に、グレアムは愉悦で唇を弧に(しな)らせた。

 

「やっぱり君はそうでなくちゃ……あんな男に惑わされて幸せになるなんて許されないんだよ。そういえばあいつ、馬鹿だったなあ。公爵は領地の屋敷に若手を雇っていないのに自分が君の恋人じゃないってしらを切ったんだ」

 

「彼を侮辱しないで」


 先程の怒りとはうって変わって、こちらを軽蔑する目線にグレアムはより興奮した。


 アナスターシアは、彼の言葉を実感していた。彼は最後まで私の為に生きてくれたのだから、これから、そして次は彼の為に生きなければならないと決意した。


 

 グレアムはアナスターシアのネグリジェを剥ぎ取り、自身も服を脱ぎ去りアナスターシアを抱きしめた。

 一度も触れることのなかった彼女の柔肌を味わうように強く、深く抱きしめた。




 アナスターシアはその日、猛烈な吐き気と共に目が覚めた。


 アナスターシアはその胃の中身を受け止めるものを見つけられず、ベッドの上に嘔吐してしまった。


 断続的に続く嘔吐と吐き気に、アナスターシアは使用人を呼ぶベルを鳴らすことも出来なかった。


 漸く治まった吐き気で、頭の中が冴えていくのが分かった。

 そして、その時丁度グレアムが部屋を訪れた。


 汗で張り付いた髪と、涙と鼻水で濡れた、それでも美しい彼女の顔を見たグレアムは急いで医者を呼んだ。彼女の顔が青ざめていたからだ。


 

 湯浴みを済ませ、清潔な服に身を包んだアナスターシアはベッドで休み、時々される医者の質問に答えながら医者の話を聞いていた。


「……妊娠?」

 絶望するアナスターシアとは対象的に、医者は柔らかい笑顔で肯定した。おめでとうございますと言いながら。


 医者が侍女にいくつかアドバイスをして去った後、その侍女がアナスターシアに言った。

 

「旦那様は本日卒業パーティーで遅くなりますが、直接お知らせになりますか?」

 

 アナスターシアはずっと昏かった瞳に光を宿した。今日が卒業パーティーの日なら、明日はきっとまた全てが元に戻ると。フィルを助けることが出来ると。


「明日の朝、私から伝えるわ。今日はもうすぐに寝るからよろしくね」

 アナスターシアはその日一日中機嫌が良かった。

 主人が無理矢理連れてきた彼女がずっと気がかりだった使用人たちは、楽しそうに庭園を散歩する彼女に安堵したのだった。





 夜中、アナスターシアはグレアムを寝室へ連れ込んだ。

 

 卒業パーティーを終え、酔っ払ったグレアムは積極的な彼女の姿に心が暖かくなっていくのを感じた。ずっと氷のように自分を拒み続けていた彼女がやっと心を開いたのだと思った。

 しかし、期待は裏切られた。


「今晩、私に手を出さないで横で寝なさい」

 彼女のわがままを聞くのは初めてだった。無茶なお願いだと思ったが、グレアムは彼女が元の調子を取り戻したのが嬉しくて彼女のわがままを素直に聞いた。


「抱きしめるのは?」

「勝手にして」

 やはり、彼女はまだ冷たい。それでも最初の時よりも心を許してくれたのだと思うとどうしようもなく、彼女が愛おしいのだ。

 グレアムはそっぽを向いてしまった彼女を優しく抱きしめて眠りについた。






 翌朝、アナスターシアはゆっくりと瞼を開いた。そして、横を見た。グレアムが居ない事を確認しようとした。グレアムが居ないことを願っていた。




「起きた?君も酷だね」


 ――しかしアナスターシアの願いはあっさりと打ち砕かれた。横で、グレアムが笑顔を浮かべて横になっていたのだ。


 

「…………フィル」

 その名前を口に出すと、グレアムの顔から笑顔が消えた。

 

「またそいつ?もういい加減にしてくれよ。アナスターシア、俺を見て――俺は誰?」


「…………グレアムよ」

「そうだよね、アナスターシア――愛してるよ」

 グレアムはそう言うとアナスターシアの額にキスを落として、彼女のネグリジェの裾から手を入れた。


「私、妊娠したの」


 グレアムはその言葉を聞くとその手を止めた。


「……本当に?」

 

「疑うならあなたの忠義な使用人に聞けばいいじゃない」

「――疑うわけないだろ、嬉しくてそう言ったんだ」

 グレアムはそう言うとアナスターシアをきつく抱き締めて、何度も色々な所にキスをした。

 アナスターシアは鬱陶しそうに彼の顔を退けると、再び眠りについた。


 眠る寸前に、きっとこれからもずっとこの男からは逃げられないのだと――アナスターシアは思った。


 アナスターシアを地獄から救い出すのはフィルではなかったのだ。



 そして、二度と同じ朝は来ない。

後日談があります。3話で終わります。

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