生命のはじまり、火の襲来 第5章ー4
律華が去ってから、診療所では静寂が続いていた。
皆葉は風呂やベッドの用意をしていて、麗は律華の持ち出してきた本を読んでいる。お互いに何を語るでもなく、それぞれの仕事をしている。
午後10時。麗を先に風呂に入れ、皆葉は律華にもらった参考書を読んでいる。
「あ、そういえば」
読書の途中で、皆葉は思い出した。バスタオルを置き忘れたことを。皆葉は、急いでバスルームに向かう。
「円さん。タオル、置いておくから」
何とか、麗が出てくる前にたどり着くことができた。皆葉は脱衣室にバスタオルを置いて、立ち去ろうとする。
その矢先だった。浴室のドアが開かれ、
「「あ」」
皆葉の視界に、綺麗な裸体が入ってきた。雑誌のグラビアにでも載っていそうな、均整のとれた、しかしグラマーな身体。風呂上がりで金髪を下ろしていて、普段よりも大人っぽく見える。
「ご、ごめん!」
慌てて後ろを向き、皆葉は逃げようとする。だが、一瞬早く、麗の手が皆葉の肩を掴んでいた。
「はあ……。君、わざとやってるのかって疑いたくなるぐらいに、タイミング悪いわね。その様でよくもまあ、孤高を気取ってこれたものだわ」
「円さん……怒ってないの?」
恐る恐る、皆葉は訊いてみる。呆れているような物言いにしか、聞こえなかったからだ。
「何かね、不思議と怒る気になれないのよ。昨日今日と、色々飛んでもないことに巻き込まれてきたせいか、私の常識が壊れたのかもね」
「そ、そうなんだ。それじゃあ」
胸をなで下ろし、今度こそ退散しようとする。しかし、麗のロックは外れない。
「円さん?」
「……シン君。いえ、皆葉君。君は、いつまで名字で私のことを呼ぶの?」
「え?」
突然、何を言うのだろうか。裸を見たことを怒るのならばともかく、名字で呼ぶことを怒るなんて。皆葉には、理解できない。
「君、少しはカタさが取れてきたけど、どうして私と距離を置こうとするの? 私が近づいても、君はどこか、距離を置きたがってる」
「それは……」
そうなのだろうか。たしかに、昨日今日と、麗とは一緒に過ごしてきた。自分の内心を吐露した。大分打ち解けてきた、と皆葉は思う。
「……私とは、親しくなりたくないの?」
「そんなことは」
断じてない。無愛想な態度をしたのに、突き放してもなお、彼女は側にいてくれる。今までの人生で、皆葉にはそんな人が誰もいなかった。
「そう。だったら、親しくなることで、私が消えることを恐れてるわけだ」
「……僕に関わった人は、みんな僕の前から去ってきたからね。無意識に、そう思ってるのかもしれない」
「――その原因が何だか、考えたことはないの?」
「原因?」
言われて、皆葉は疑問に思った。たしかに、皆葉を嫌う人、親しくなる人。どちらとも、最終的には離れていった。それは、なぜだろうか。
「君……少しは人間の感情というものを、理解した方が良いよ。たとえば、神奈ちゃんのことは、どう思ってるの?」
「神奈? 別に、妹のように思ってるけど」
「そう。だったら、神奈ちゃんは君のことを、どんな風に思ってると思う?」
「はい?」
兄のように思っている、と答えようと思った。だが、気がつけば、麗の口調は真剣なものになっているように感じられた。いや、少し怒気が混ざっているのかもしれない。
だから、皆葉は一呼吸置いて、
「……僕には、分からない。兄として扱ってもらっているとは思うけど、時折距離が近すぎると感じることも、あった気がする」
率直な感想を述べた。
「……そう」
少し、麗の掴む手が弱まった。振り解こうと思えば、できないこともない。だが、皆葉は動かなかった。
「ま……れい、さん。突然神奈のことを話題に出したってことは、ひょっとして神奈が?」
たどたどしくだが、名前で呼んで見た。後ろを向いているので表情は読み取れないが、少し口調を柔らかくして、麗は語る。
「さあ、私には分からない。私があの子に感じた印象は、君よりも強烈なものだったから、ありえなくもない、とは思ったけどね。
それと、研究区で訓練しているときに聞いたのだけど、君を昨日襲った連中。ナイフを持って君をリンチしようとしたから退学処分になったけど、処分が言い渡される前に、ボロボロにされてたそうよ。誰がやったか訊いたらしいけど、連中は気がついたら怪我をしていたとしか答えなかったそうだし」
「その件と、神奈がどう」
「今回と同じように、証拠がなかったんでしょ、君に関わった人に起こった、不幸なことは。だから、怪しいとは思ってたけど、ここに来て疑惑が深まったと思うの」
麗が背後から、指を伸ばす。
「不思議に思わなかった? ここ、君以外に来る身内がいないはずなのに、整理整頓も掃除もされていたことに」
その指が壁際をなぞるが、汚れは全然つかなかった。
「そして、ここには魔術に関する本が多数ある。つまり、神奈ちゃんがここで独自に魔術を修得して、悪用してたのかもしれない」
「そんなことは」
ない、と言いかけた。だが、自分でも認識しているように、他人の感情が読めない。ひょっとしたら、ありえないことでもない、と思ってしまう。事実、診療所からは、肯定できる材料が上がっている。
「……僕は訊いてないけど、ひょっとしたら叔母さんが掃除してくれている、のかもしれない」
それでも、皆葉は否定しようとした。妹のように思っている少女だ。最後まで信じてあげたい、と思った。
「それが、君の考えか。それはそれでいいけど、水無月命。あの女のことは、どう思ってるの?」
「メイちゃん?」
「そう。私とは違って、あの女のことは名前で呼んでる。好きなの?」
「それは……」
分からない、としか言えない。今朝、夢を見るまで、すっかり十年前の出会いを忘れていたし、当時そこまでの意図があったことも分からなかった。思い出したからといって、急に答えられるものではない。
態度に出たのだろうか、麗は質問を変える。
「答えられないみたいね。無理もないか。じゃあ、私のことはどうなの?」
「……………………まどか」
「もういい!」
肩を掴んでいた手が離され、皆葉は突き飛ばされた。
振り返ろうとするが、麗に脱ぎ捨ててあった制服を投げつけられた。
「見ないで!」
バスタオルを手にして、麗は浴室へ戻っていった。ばたん、と大きな音を出して。
それっきり彼女は、皆葉が立ち去るまで出てこなかった。




