第4話 あなたを選ぶ
五日後。約束の時刻より少し早く、ルーカスはエヴァレット邸へやって来た。
階段を下りたリディアは、玄関広間に立つ彼の姿を見つけて足を止めた。
黒い外套に、濃紺の上着。いつものように隙なく整えられた姿は、屋敷の中にいるだけで妙に目立った。
壁際に寄りかかり、退屈そうに腕を組んでいたルーカスは、リディアの姿に気づくとゆっくり顔を上げた。
「遅い。迎えに来てやったんだから、さっさと出てこい」
「まだ約束の時間前よ」
「俺が来た時点で遅刻だ」
「あなたの勝手な時間に合わせるつもりはないわ」
言い返しながら階段を下りると、ルーカスの視線がリディアの姿へ向いた。
赤毛を緩く編み、胸元へ流している。
着ているのは若草色の外出着だ。先日、緑色が似合うと言われたことを意識したわけではない。手持ちの中で、出かけるのに適した服がこれだっただけだ。
それなのに、ルーカスの目がドレスへ落ちた瞬間、言い訳を並べたくなる自分がいた。
「また緑か」
「何か問題でも?」
ルーカスは唇の端を上げた。
「いや、なんでもない」
そう言いながらも満足げなルーカスの表情を見て、リディアは悔しくなった。明らかに、こちらの言い分を信じていない。
そんなリディアの気持ちを察したのか、ルーカスが身を寄せ、彼女の手を取った。
「……よく似合ってる」
耳元で囁かれ、また顔が熱くなる。
たまたまよ。あなたに言われたからじゃないわ。言い返したい言葉はたくさんあるのに、何一つ出てきてはくれない。
「ルーカス君」
背後から、穏やかな声がした。
リディアが振り返る。
「お父様」
父、ローレンスが廊下の奥に立っていた。
今日もいつも通り、柔らかな赤毛を整え、優しそうに目尻を下げている。
「もう出かけるところだったかな」
父はゆっくり近づき、ルーカスへ目を向けた。
「今日は娘をよろしく頼むよ」
「もちろんです」
ルーカスが答える。
いつものような、自信に満ちた笑顔と声だった。
「私はどうも心配性でね。リディアが小さい頃から、少し帰りが遅いだけで落ち着かなくなるんだ」
「お父様、子どもじゃないんだから」
「分かってはいるんだけどね」
父は困ったように笑う。
「護衛もついているから大丈夫ですよ」
ルーカスはそう言うと、リディアの手をぎゅっと握った。
「さあ、行こう。リディア」
そのまま手を引かれる。
「楽しんでおいで」
ローレンスは軽く手を振って、二人を見送った。
ルーカスはそのままリディアの手を握って歩いている。先日、馬車を降りるときに手を取られたのとは違う。今はまるで、恋人同士のように手を繋いでいた。
そう意識した途端、リディアは少し動揺してしまう。
そして、気づいた。ルーカスの指先が、ほんの少しだけ震えている。
もしかして、自分と手を繋いで緊張しているのだろうか。
そんな自分に都合のよい想像を、リディアはすぐに打ち消した。
きっと、気のせいだ。
馬車へ乗り込むと、ルーカスはすぐに窓の外へ顔を向けた。
リディアは向かいに座り、その横顔を眺める。
馬車の中では、会話らしい会話はほとんどなかった。
誘っておきながら、こちらを楽しませる気はないらしい。
それでもリディアは、沈黙を不快には感じなかった。
無理に話題を探す必要がない。読書をしているときと同じように、互いが互いの時間を過ごしている。
それが、リディアには心地よかった。
◇◇◇
古い修道院は、深い森を抜けた先にあった。
石造りの建物は長い年月を経て、壁の一部を蔦に覆われている。
かつて鐘楼だった塔は半分ほど崩れ、それでもなお空へ向かって伸びていた。
「すごい……」
馬車を降りたリディアは、思わず声を漏らした。
「気に入ったか」
「ええ」
「なら、連れてきた甲斐があった」
その言葉に、また胸が少し温かくなる。
修道院の一部は今も礼拝堂として使われているが、残りは古い文書や写本を保存する場所になっていた。
管理人に案内され、二人は奥の書庫へ入る。
石壁に囲まれた部屋。古い木製の棚。何百年も前に書かれた祈祷書や詩集。
リディアは完全に時間を忘れた。
「これ、見て」
大きな写本を開き、ルーカスを呼ぶ。
「読めない」
「古語よ。ここはね――」
説明を始めると、ルーカスは黙って隣へ立った。
分かっているのかいないのか、それでも途中で遮ることはしない。
気づけば、リディアは夢中になって長いこと話していた。
「ごめんなさい、私、つい……」
「お前が楽しそうだから、それでいい」
リディアは言葉を止めた。
ルーカスは、これまで見たこともないほど優しい顔で自分を見ていた。
どうして、この男はこんな顔をするのだろう。
どうして今さら、優しくするのだろう。
「どうして……急に態度が変わったの? 昔はあんなにひどい人だったのに」
つい、言葉に出してしまった。
口にした瞬間、後悔した。ルーカスの表情が歪む。
「昔の話をいつまで引きずるつもりだ」
その一言で、胸の奥に残っていた迷いが消えた。
「あなたには、昔の話なんでしょうね」
声が思ったより低くなった。思い出すだけで、喉の奥が詰まる。
傷つけた側は覚えていない。傷つけられた側だけが、その言葉を何年も抱えて生きている。
リディアの様子が変わったことに気づき、ルーカスの顔に僅かな動揺が浮かんだ。
「あなたが言ったことも、したことも、私は全部覚えているわ」
「リディア」
「あなたにとっては、覚えていないほど些細なことでしょうね。でも私は、ずっと忘れられなかった」
そこまで言って、リディアは唇を噛んだ。
泣きたくない。今さら、彼の前で泣くものか。
それなのに、視界が少し滲んだ。
「リディア、俺は……」
「もういいわ」
その先を聞きたくなくて、リディアは何か言おうとしたルーカスの言葉を遮った。
「あなたがいくら表面を取り繕ったって、私は信じない。あなたのしたことを許すこともない」
彼が優しい言葉をかけても、非情な言葉を放っても、自分が傷つくのは目に見えていた。
ルーカスを拒絶することでしか、自分を守れなかった。
そんなリディアの思惑に気づいたのか、ルーカスはそれ以上何も言わなかった。
◇◇◇
修道院を出る頃には、陽が少し傾き始めていた。
あれからリディアとルーカスはほとんど言葉を交わさず、二人の間には気まずい空気が流れていた。
管理人が、心配そうな面持ちで見送りに出てきた。
「もう暗くなってきていますね。最近、この辺りは少し物騒でして……どうぞお気をつけください」
最後に「護衛の方もいらっしゃるようですし、大丈夫とは思いますが」と付け加えた。
「何かあったの?」
リディアが尋ねると、管理人は声を落とした。
「少し前にも、若いご令嬢が殺されたそうですよ」
リディアの動きが止まった。
「殺された?」
「ええ。街道から少し外れた森で見つかったとか。お気の毒に」
物騒な話だった。アルディン領は比較的治安がよいと聞いていたため、意外だった。
「どちらのご令嬢だったの?」
「確か……ロゼッティ侯爵家のお嬢様だったと思います」
その家名には聞き覚えがあった。
リディアは少し考え、ようやく思い出す。
エレーヌ・ロゼッティ。金髪の美しい令嬢だった。
夜会でも何度か見かけたことがある。
そして、ルーカスが留学から戻った頃、一時期、彼との婚約話があるのではないかと噂されていた女性だった。
リディアはそっと、隣に立つルーカスを見た。
その瞬間、息が止まった。
ルーカスは、まるで別人のような顔をしていた。
笑っておらず、驚いてもいない。ただ、青い瞳からすべての感情が消えていた。氷のように冷たい無表情。
いつも自信に満ち、人をからかうように笑っている男からは想像できない顔だった。
「……ルーカス?」
リディアが様子を窺うように呼びかける。
ルーカスは数秒遅れてこちらを見た。
「……少し驚いただけだ。エレーヌ嬢とは付き合いがあったから」
“付き合い”という言葉に、胸がちくりと痛んだ。
「行くぞ。遅くなると、お前の父親が心配する」
いつの間にか、いつもの表情へ戻っていた。
歩き出すルーカスを見ながら、リディアは先ほどの顔を思い出していた。
あれは悲しみだったのだろうか。
それとも、別の何かなのか。
「どうした?」
「……なんでもないわ」
「もしかして、妬いたのか?」
「不謹慎な冗談はやめて」
いつも通りのルーカスに戻ったことに、少しだけ安堵する。
ただ、先ほどの彼の顔を思い出すと、背筋に冷たいものが走った。
◇◇◇
馬車が森の奥深くへ差しかかった頃だった。
突然、馬車が大きく揺れた。
「きゃっ」
身体が横へ投げ出される。
ルーカスがすぐに腕を伸ばし、リディアの肩を支えた。
「何だ?」
外から馬の嘶きが聞こえる。
続いて、御者の怒鳴り声。何かがぶつかる鈍い音。
「ルーカス……」
「ここにいろ」
ルーカスの表情から、笑みが消えた。
扉へ手を伸ばした直後、外から叫び声が響いた。そして、馬車の扉が乱暴に開かれた。
「降りろ!」
顔を布で覆った男が立っていた。手には剣が握られている。
リディアの身体が凍った。ルーカスが素早く立ち上がり、リディアの前へ出る。
「誰に向かって言ってる」
「アルディンの坊ちゃんか」
男は笑った。
「女を置いていけば、お前は帰してやる」
ルーカスの顔が、氷のように冷たくなる。
「失せろ」
男が剣を振り上げた。
次の瞬間、ルーカスが馬車の中にあった杖を掴み、男の腕を打ち払った。
剣が床へ落ちる。
「走れ!」
リディアの腕を掴み、反対側の扉から外へ飛び出す。
森の中には、さらに数人の男たちがいた。
護衛はすでに倒れている。一人は地面へ伏し、もう一人は木の根元で男たちと争っていた。
「ルーカス!」
手を引かれる。リディアは必死に足を動かした。
枝がドレスへ引っかかり、何度も転びそうになる。
背後から男たちの足音が追ってくる。
「止まるな!」
息が苦しい。胸が痛い。それでも走った。
ルーカスの手だけを頼りに。
けれど、木の根へ足を取られた。
「あっ」
身体が前へ倒れる。
思わずルーカスの手を離してしまい、そのまま地面へ倒れ込んだ。
その一瞬、男が背後から剣を振り下ろした。
「ルーカス!」
リディアの視界が真っ白になった。
「ぐっ……!」
気づけば、ルーカスに抱き込まれていた。
金属が肉を裂く鈍い音。ルーカスの身体が大きく揺れた。
リディアの頬へ、温かいものが落ちる。血だった。
「ルーカス……?」
「……大丈夫だ」
リディアは動けなかった。
ルーカスの背中から、血が流れている。力強くリディアを抱く腕が震えていた。
それでも彼はリディアを庇い、立ち上がった。
「俺の後ろから出るな」
「でも」
「いいから!」
初めて聞くほど強い声だった。リディアは息を呑む。
そのとき、森の向こうから馬の音が響いた。応援の護衛だった。
賊たちの間に動揺が走った。
「撤退だ!」
一人が叫び、男たちは森の奥へ逃げていった。
あとには、ルーカスとリディアだけが取り残された。
リディアは、しばらく何も理解できなかった。
「ルーカス」
彼の身体が傾く。
「ルーカス!」
慌てて支えるが、長身の男を支えきれず、そのまま二人で地面へ座り込んだ。
ルーカスの顔は真っ白になり、肩で息をしている。
「誰か! 誰か来て!」
リディアは叫んだ。傷口から血が溢れ続けている。
どこを押さえればよいのかも分からず、ただ泣くことしかできなかった。
「死なないで……お願いだから」
声が震えた。
「大丈夫だ。俺は死なない」
「分からないでしょう!」
涙が溢れた。
こんなにも怖いと思ったことはなかった。
自分をいじめ、弄んだ挙げ句、何も言わず消えたルーカスを恨んだ。もう二度と会いたくないと思った。
それなのに、本当に失うかもしれないと思った瞬間、胸を引き裂かれるような痛みが走った。
「どうして」
涙で視界が滲む。
「どうして、私を庇って……」
ルーカスは苦しそうに息を吐いた。
それから、なぜか笑った。
「当たり前だろ」
「何が当たり前なの」
「お前を守ることが」
リディアは言葉を失った。
「私は、さっきあなたにあんなことを言ったのに。あなたを信じない、許さないって」
「ああ」
「それなのに……」
「俺は、ずっと後悔していた」
ルーカスの青い瞳が、真っ直ぐにリディアを見る。
その目には、いつもの余裕も、からかうような色もなかった。
「お前にひどいことをしたことを、謝りたかった。償いたかった」
「なんで……」
「俺が、お前を好きだから」
森の音が消えたように感じた。
「……え?」
「ずっと、お前が好きだった」
「だったら……どうして、あんなことをしたの?」
ルーカスは苦しそうに息を吐いた。
「お前をからかったのも、好きだから構ってほしかったんだ。身体の関係を持てば、いつか俺を好きになってくれると思っていた」
「そんな……じゃあ、どうしていなくなったの?」
「いくら身体を重ねても、お前は俺に振り向いてはくれなかった。だから、お前を諦めたくて逃げたんだ」
ルーカスの表情が歪む。怪我の痛みなのか、過去への悔恨なのか、リディアには分からなかった。
「それでも諦められなくて、家の事情を理由に婚約者として名乗り出た」
信じられなかった。
ずっと自分を傷つけてきた男が、本当はずっと自分を好きだったなんて。
「そんなこと、突然言われても……信じられないわ……」
「リディア」
名前を呼ばれる。ふざけた響きはなかった。
胸の奥が、甘く痛んだ。
「俺と結婚してくれ」
リディアは目を伏せた。
「俺を選んでくれ」
ルーカスが、こんなふうに誰かへ頼むところを初めて見た。
彼の手の中で、赤毛が柔らかく揺れている。
その指が微かに震えているように見えたのは、傷の痛みのせいだろうか。
ルーカスは、ゆっくり息を吸った。
「好きだ、リディア」
名前を呼ばれる。それだけで胸が痛い。
リディアは答えられなかった。
幼い頃、“丸パン”と呼ばれた。
たくさんひどいことを言われて、泣かされた。
学園時代は、呼ばれるまま部屋へ行った。
何度も身体を重ねた。
それでも、愛しているとは一度も言われなかった。
そして卒業後、彼は何も言わず消えた。
「私、ずっと自分が馬鹿だったと思ってた」
「……」
「あなたにとって私は、ただ都合がよかっただけだって」
ルーカスが目を伏せる。
リディアは唇を強く噛んだ。
自分でも分かっていた。
嫌だと言うことも、拒むこともできたはずだった。
それでも、自分が勝手について行き、勝手に期待していた。
その理由は、一つだった。
「……好きよ」
声にした瞬間、胸の奥で何かがほどけた。
「私もあなたが好き。あなたを選ぶわ」
リディアは泣きながら笑った。
どうしてこんな男を好きになってしまったのだろう。
「だから、死んだら許さない」
傷つけられて、捨てられた。
今だって、許してなどいない。
それなのに、血まみれになりながら、自分だけを守ろうとするこの男を失いたくなかった。
遠くから、護衛たちが駆け寄ってくる音が聞こえる。
その音を聞いたルーカスが安堵したのが、リディアにも伝わった。
「リディア、もう一つだけ伝えたいことがある」
「何?」
「覚えておけ。丸パンは、子どもの頃から俺の大好物だ」
ルーカスは笑った。リディアも、つられて笑った。
そして二人は、そっと口づけた。




