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最終話 どちらでもいい

 ルーカスの傷が癒えるまで、三週間かかった。

 医者から外出の許可が下りた日、彼は真っ先にエヴァレット邸を訪れた。

 そして二人は、正式に婚約した。


 婚約が発表されると、社交界は大いに沸いた。

 ルーカス・アルディンは、以前から多くの令嬢に注目されていた。

 容姿端麗で優秀な伯爵家の子息。女性との噂が絶えないことさえ、彼の魅力の一部として語られていた。


 そんな彼が選んだ相手が、目立たないエヴァレット伯爵令嬢だったことに、人々は驚いた。

 好奇の目を向けられるリディアを、ルーカスはいつも庇った。

 夜会でも彼女のそばを離れず、見せつけるように大切にした。


「リディア、少しは俺を信じる気になったか?」


 ある夜、夜会の喧騒の中でルーカスが囁いた。

 もう、とっくに信じている。

 けれどリディアは、少し意地悪く笑ってみせた。


「どうかしら」


「なら、これから信じさせる」


 いつもの自信に満ちた声。けれど今回は、嫌ではなかった。


「あなたは、何でも自分の思い通りになると思っているわね」


「お前以外は、だいたいな」


「私も、もう思い通りになったのでは?」


「まだだ」


「何がかしら」


 ルーカスは答えなかった。

 代わりにリディアの手を取り、その指先へ口づける。

 ふと見上げた青い瞳は、笑っていなかった。

 どこか切迫したような、焦りにも似た光が一瞬だけ浮かぶ。

 けれど、それもすぐにいつもの余裕ある表情に隠れた。


「結婚するまでは安心できない」


 それを執着と呼ぶのだろう、とリディアは思った。

 この男は昔から、自分に構わずにはいられなかった。

 好きな子ほどいじめたくなるという幼稚な感情を、長いこと拗らせていたのかもしれない。


 そう考えると、過去の傷まで消えはしないが、その意味は少しだけ変わった。


◇◇◇


 その夜、ルーカスは一人、エヴァレット邸の廊下を歩いていた。

 廊下の突き当たりには、使用人用と思われる小さな扉がある。

 その前に、リディアの父――ローレンスが立っていた。

 いつもと変わらぬ柔和な笑顔が、薄暗い廊下では妙に不気味に見えた。


「ルーカス君、こっちだよ」


 優しい声に、ルーカスは答えなかった。

 扉の向こうには、地下へ続く階段があった。壁に等間隔で灯された蝋燭の炎が、石造りの通路をぼんやりと照らしている。

 長く、深い階段だった。一段下りるごとに、地上の気配が遠ざかっていく。


「これで、約束は果たした」


 ルーカスが低く言った。

 ローレンスは振り返らない。


「リディアは俺を愛している。婚約もした。これで満足だろう?」


 答えはない。静かな階段に、二人分の足音だけが響いた。

 やがて階段が終わり、鉄製の扉の前へ出た。

 ローレンスが扉を押す。重く鈍い音が地下に響いた。


「父さん! 母さん!」


 ルーカスは中へ駆け込んだ。

 狭い石室の奥に、二人の人間が座っていた。

 やつれ果てた男と女。髪は伸び、頬は落ち窪み、以前の面影はほとんど残っていない。

 鎖に繋がれていた女性が顔を上げた。


「ルーカス……」


 今にも消えてしまいそうな、かすれた声だった。


 ルーカスは両親へ駆け寄ろうとした。

 しかし、背後から腕を掴まれ、床へ引き倒される。


「離せ! 約束が違う!」


 叫びながら顔を上げる。

 ローレンス・エヴァレットが、ルーカスを見下ろしていた。


 昼間と同じ柔らかな赤毛。穏やかに垂れた目尻。少し猫背で、頼りなく見える細い身体。

 いつもの彼と、何一つ変わらない。


「何が違うのかな」


 ローレンスは静かに尋ねた。


「リディアと婚約すれば、父さんと母さんを解放すると言っただろう!」


 ルーカスは床に倒れたまま、ローレンスを睨みつけた。


「俺は全部やった! お前に指示されたことを、全部!」


 婚約を申し込み、好きでもない本の話を聞き、彼女が大切にしていた言葉まで覚えた。

 甘い言葉を吐き、命まで懸けて守った。


「それなのに、エレーヌまで殺しただろう!」


「ああ、ロゼッティ家のご令嬢か」


 ローレンスは、今思い出したように頷いた。


「仕方がなかったんだよ。君との婚約話が残っていては、リディアが余計な不安を抱くだろう?」


 ルーカスは唇を噛んだ。

 この男にとって、命とはここまで軽いものなのか。


「殺す必要なんてなかった!」


「そうかな」


「それに、あの日は俺まで死ぬところだったんだぞ!」


「死なないように調整していたよ」


 ローレンスは申し訳なさそうに眉を下げた。


 あの日の襲撃は、偶然ではなかった。

 修道院からの帰路で賊に襲われたことも、すべてローレンスの差し金だった。


 ルーカスは事前に知らされていた。

 リディアを必ず守れ。少しでも躊躇えば、両親の指を一本ずつ落とす。そう脅されていた。


「多少の傷は必要だった。無傷では、リディアも信じないからね。でも、君が死なないように腕のいい者へ頼んだ」


 まるで庭木の剪定について話しているような口調だった。


「結果として、君は助かった。リディアも君を許し、愛した。すべてうまくいったじゃないか。何の問題がある?」


 ローレンスは首を傾げた。

 本当に理解できないという顔だった。


「俺はこんなことを望んでいない……!」


「君の幸福は、最初から条件に入っていない」


 静かな言葉だった。

 怒鳴られたわけでもない。それなのに、ルーカスの背筋を冷たいものが這い上がった。


「なぜ、ここまでするんだ……」


「分からないのかな?」


 ローレンスの顔には怒りがない。

 それがかえって恐怖を引き立てた。


「少しからかっただけだ! 子どもの頃のことだろう!?」


 ローレンスの目が、ほんのわずかに細くなる。


「少し?」


 その一言に、先ほどまでのルーカスの勢いが止まった。


「確かに、君は自ら手を下すことは少なかった。でも、周りの子どもたちがリディアをいじめるように仕向けていたね」


 ルーカスは何も言えなかった。


 子どもの頃、陰気でおどおどしたリディアが、なぜか鼻についた。

 だから彼女を笑い、自分を慕う友人たちがそれに倣うのを面白がっていた。

 誰かがリディアを傷つければ、わざと楽しそうに笑った。

 人気者だったルーカスに気に入られたい子どもたちは、やがて嬉々としてリディアをいじめるようになった。


「それだけではないよね」


 ローレンスは淡々と続けた。


「学生時代、娘に何をしたのかな」


 ルーカスの呼吸が止まった。

 石室の空気が、さらに冷えたように感じられた。


「あれは……」


「たびたび呼び出して、身体だけを求めた」


「合意の上だ! リディアも嫌がらなかった!」


「ああ、そうだね」


 ローレンスは否定しなかった。


「娘は君を嫌悪しながら、同時に執着していたからね」


 ルーカスは何も言えない。

 学園に通っていた頃、リディアは今以上に内向的で、人付き合いが苦手だった。

 それでも、ルーカスが呼べば来た。拒絶もしなかった。

 他の女より口が堅く、恋人になりたいとも言わない。

 ただ、都合がよかった。


「それに君は、金をもらって友人たちに娘との行為を見せていたよね」


 ルーカスの喉の奥が、ひゅっと鳴った。

 なぜ、この男はそこまで知っているのか。リディアさえ知らない、秘密の小遣い稼ぎのことまで。


「そして最後は、何も告げずに留学した」


 ルーカスは口を閉じた。

 リディアのことなど、国を出れば忘れた。

 美しい女性はいくらでもいた。自分を好いてくれる者も、身体を許す者も。

 物静かで、すぐに傷つく赤毛の少女を、わざわざ思い出す理由はなかった。


「この……馬鹿息子」


 石室の奥から、低い声がした。

 ルーカスの父だった。


「よりによって、“あの”エヴァレット家の娘に手を出すなど……」


「俺は知らなかったんだ……!」


 再び父親へ駆け寄ろうとしたルーカスの腕を、ローレンスが強く掴んだ。

 思いがけない力に、ルーカスの口から小さな呻き声が漏れる。


「君は娘を捨てた。私は、それ自体を責めているわけではないよ」


 ローレンスが言った。


「では、何がしたいんだ……!」


「娘が、自分を惨めな女だと思うようになったことが悲しいんだ」


 その声には、初めて微かな悲しみが混じった。


「リディアは、君に愛されなかった自分には価値がないと思った。今後、深く誰かを愛することも、愛されることもないと信じてしまった」


「そんなこと、俺は知らない!」


「それも、どちらでもいいんだ」


 ルーカスは言葉を失った。

 ローレンスはいつものように、穏やかに微笑んでいる。


「君が悪意を持って娘を壊したのでも、何も考えずに壊したのでも、私にはどちらでもいい」


「それで、俺を脅して……」


「娘に、別の物語を与えたかった」


 ローレンスは静かに続けた。


「愛されずに捨てられた娘ではなく、長いすれ違いの末に初恋を実らせた娘に」


「そんなことのために、俺を、俺の家族を……!」


 ルーカスの身体は、怒りからか、絶望からか震えていた。

 ローレンスは微笑んだ。


「最近のリディアは、とても幸せそうだよ」


「俺は愛していない!」


 叫びが石壁へ反響した。

 鎖に繋がれた母親が、かすかに泣き声を漏らす。


「俺はあいつなんか愛していない! お前は狂ってる!」


「そうかもしれないね」


 ローレンスは、あっさりと認めた。


「けれど、娘を愛している」


 穏やかな声だった。


「親というのはね、自分の子どもが傷つけられたことを、そう簡単には忘れられないんだよ」


 その言葉には、怒りも憎しみもなかった。

 だからこそ、ルーカスには何よりも恐ろしく聞こえた。


「さて」


 ローレンスはルーカスから手を離すと、壁際の戸棚から何かを取り出した。

 振り返ったその手には、一本の短剣が握られている。


「何だ、それは」


 ローレンスは短剣をルーカスの前へ差し出した。


「君はこれから、エヴァレット家の一員になる」


「……だから、何だ」


 ルーカスは短剣を見つめた。

 磨かれた刃に、蝋燭の光が揺れている。


「私たちエヴァレット家は、代々、王家のために汚れ仕事を引き受けてきた」


 ローレンスは淡々と告げた。


「諜報。尋問。反逆者の処分。公にできない問題の始末」


 温厚で気弱な伯爵。権力争いを嫌い、社交界では妻の陰に隠れる男。

 それがすべて、偽りだったのか。


「そして、この仕事は代々、男が継ぐことになっている」


 受け取ろうとしないルーカスの前で、ローレンスは短剣を軽く揺らした。


「だから、次は君だよ」


 ルーカスは息を呑んだ。

 なぜこの男が、これほどのことを平然とやってのけられたのか。

 ようやく、すべてが繋がった気がした。


「リディアは知っているのか?」


「まさか。エヴァレットの女たちは、この仕事を知らないんだ」


 ローレンスの微笑みは崩れない。


「その方が幸せだからね」


 そして再び、短剣を差し出した。


「君も家族になるなら、最低限のことはできなければ困る」


「何をさせるつもりだ」


「難しいことではないよ」


 ローレンスが、鎖に繋がれた二人へ目を向ける。


「まず、お父上かお母上のどちらかを殺してみようか」


 石室から、音が消えた。

 ルーカスの父親が顔を上げる。母親は声も出せず、首を振っていた。


「……何を」


「一人でいい」


 ローレンスは短剣をルーカスの前へ置いた。


「どちらを選んでも、残った方は解放しよう」


「話が違う! リディアと婚約すれば、両親を解放すると言っただろう!」


「君の親を解放すると言ったんだ。両親とは言っていない」


「ふざけるな! できるわけがない!」


「そうか」


 ローレンスは残念そうに眉を下げた。


「では、君が死ぬ?」


「何?」


「君が死ぬでも、お父上かお母上が死ぬでも」


 穏やかな笑み。


「私は、どちらでもいいんだ」


 ルーカスの全身から血の気が引いた。


 これは自由ではない。

 逃げ道をすべて塞いだあと、最後の責任だけを相手へ押しつける言葉だ。


「でも、リディアは俺を愛している!」


 ルーカスは叫んだ。


「俺が死んだら悲しむぞ!」


「ああ、そうだろうね」


 ローレンスは頷いた。


「でも、虐げられて捨てられた惨めな女より、最愛の夫を不慮の事故で失った悲劇の妻の方がずっといい」


 ルーカスは息を止めた。


「事故……?」


「戦争でもいい」


 ローレンスは考えるように首を傾げた。


「近いうちに、国境で小さな衝突が起きる予定だ。新婚の若い夫が王命を受けて出陣し、勇敢に戦って命を落とす。悪くないと思わないか」


「俺のことも、殺すつもりだったのか」


 声が震える。


「それは、君次第だよ」


 ローレンスは短剣を指した。


「君が決めなさい、ルーカス」


 短剣の刃が光る。

 父親はルーカスを罵倒し、母親は泣きながら命乞いをしていた。

 ルーカスが短剣へ手を伸ばすと、二人の声はさらに大きくなる。


「ルーカス! アルディン家に必要なのは誰か、分かっているな!」


「あなたをここまで育てたのは、愛したのは誰だと思っているの!?」


 自分の命のために、互いを殺せと罵り合う両親。なんて醜いのだろう。


 何でも自分の思い通りになると思っていた。

 人は自分を好いた。多少横柄に振る舞っても、それすら許された。

 だからリディアを騙すことも、両親を救い出すことも、簡単だと思っていた。

 けれど最初から最後まで、自分はローレンスの掌の上にいた。


「父さん、母さん……ごめん……」


 ルーカスは短剣を振り上げた。

 ローレンスは、その姿を満足げに見つめていた。


「ようこそ、ルーカス・エヴァレット」


◇◇◇


 その頃、リディアは一人、窓辺の長椅子に座っていた。

 空には満天の星が浮かび、淡い天の川が夜空を横切っている。

 ルーカスも、この空を見ているのだろうか。


 この美しい星空を、彼と一緒に眺められたらと思った。

 もうすぐ結婚し、同じ屋敷で暮らすようになれば、二人並んで夜空を眺めることもあるのだろう。

 昼間会ったばかりなのに、もう少し寂しい。

 そんなことを思える自分が、リディアにはひどく贅沢に感じられた。


 膝の上の本を開く。ルーカスが書店で買ってくれた、新しい一冊。

 昔から何度も読み返した物語と同じ本。頁の匂いは、まだ新しい。


 リディアは指先で文字をなぞった。


「人は、己が選びし道と信ずるならば、いかなる運命をも幸福と呼ぶ」


 声に出して読む。


 ふいに、父の口癖を思い出した。以前は嫌いだった言葉。


 ――私は、どちらでもいいんだ。

 ――君が決めなさい。


 それは、無関心ではなかった。

 臆病な自分が誰かに流されるのではなく、自分の意思で幸福を掴めるように。

 父はずっと、待っていてくれたのだ。


 そうしてリディアはルーカスを選び、ついに幸福を手にした。

 不器用で、幼稚で、随分遠回りをしたけれど。

 二人はようやく、同じ場所へ辿り着いた。


 長い間、自分は物語の主人公にはなれないと思っていた。

 目を引く美貌もない。誰かを惹きつけるような明るさもない。

 それでも、自分を選び、守り、昔から大切な言葉を覚えていてくれた人がいる。


 リディアは静かに本を閉じた。

 星空を見上げ、リディアは幸福そうに微笑んだ。


 その遥か下で、誰かが父と母の名を叫び続けていた。

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