第3話 忘れられなかった言葉
新しくできた書店は、城下の大通りから一本外れた、落ち着いた通りにあった。
三階建ての建物は、外壁に蔦が絡まり、入り口の上には金色の文字で店名が記されている。窓から見える店内には、天井近くまで本棚が並んでいた。
店に入った瞬間、最近の憂鬱な気分がすべて払拭されたように、リディアの心は晴れ渡った。隠すことなく目を輝かせる彼女を、ルーカスは呆れたような、微笑ましそうな顔で見つめていた。
リディアは見慣れない背表紙へ目を奪われる。翻訳本だけではない。原書らしきものも並んでいる。
「本当に珍しい本もたくさんあるのね」
すうと息を吸い込むと、紙と革、それから乾いた木の匂いがした。リディアは、この書店独特の香りが好きだった。
静かな空間だった。人の声はほとんどなく、頁をめくる音と、時折床板が軋む音だけが聞こえる。
リディアは、胸の奥がゆっくりと解けていくのを感じた。
本に囲まれている場所では、自分が自分でいられる。
「随分嬉しそうだな」
背後から声をかけられ、リディアは振り返った。
「当たり前よ。こんなに素敵な書店は初めてだわ」
「屋敷にも腐るほど本があるだろう」
「全然違うわよ。知らない本があるというだけで、世界が広がるでしょう」
言いながら、リディアは近くの棚へ手を伸ばした。
「ここには、私がまだ読んだことのない物語が何百冊もあるの。その中には、これから一生覚えているような言葉があるかもしれないわ」
夢中で話してから、はっとした。
またやってしまった。本の話になると、つい相手が興味を持っているかどうかを忘れてしまう。
以前、夜会で知り合った令息に同じような話をしたところ、露骨に退屈そうな顔をされた。ルーカスもきっと、馬鹿にするだろう。
恐る恐る見上げると、彼は笑っていなかった。つまらなそうにもしていない。ただ、じっとリディアの顔を見ていた。
「何? また変なことを言ったと思っているのでしょう」
「いや、そんなことは思っていない」
「では、なぜそんな顔を」
ルーカスは答えず、リディアが手をかけていた本を棚から抜いた。外国語で書かれた詩集だった。何頁か適当に開き、すぐに元へ戻す。
「お前は、昔から本当に本が好きなんだなと思って」
リディアは目を瞬いた。
「私が本好きだって、覚えていたの?」
「会うたびに本を抱えていた女を、どう忘れろと?」
呆れたような口調だった。それでも胸の中に、小さな温かさが灯った。
ルーカスは自分になど興味がないと思っていた。それなのに、そんな些細なことまで覚えていたらしい。
「欲しいものを選べ。買ってやる。婚約者様からの贈り物だ」
「結構よ。まだ婚約者ではないもの」
「だから餌を撒いている」
「何よ、その言い方」
「綺麗に言えば、口説いている」
あまりにもさらりと言われ、リディアは言葉を失った。
ルーカスは何事もなかったかのように別の棚へ向かっていく。その耳が、ほんの少し赤いように見えた。
光の加減だろう。この男が照れるはずがない。
リディアは熱を持ち始めた頬を隠すように、目の前の本棚へ向き直った。
◇◇◇
一階から二階へ。二階から三階へ。リディアは時間を忘れて本を見て回った。
ルーカスは最初こそ近くにいたが、途中から窓辺の椅子へ座り、持ってきた書類を読み始めた。
退屈なのだろう。それでも帰ろうとは言わなかった。気づけば、店へ入ってから随分と時間が経っている。
「待たせてしまったわね。ごめんなさい」
選んだ本を胸に抱えて近づくと、ルーカスは書類を畳んだ。
「もういいのか」
「ええ」
「では、買ってやろう」
「結構よ。もう購入したわ」
可愛げがない、とでも言いたげに、ルーカスが顔を歪めた。
「退屈だったでしょう? あなたは本に興味なんてないでしょうから」
「そんなことはない」
リディアは彼の顔を見た。ルーカスが本を読む姿など、想像したことがなかった。
子どもの頃も、彼は剣の稽古か乗馬か、他の子どもたちと外を走り回っていた。リディアが本を読んでいれば、わざわざ近寄ってきて邪魔をする。本そのものには興味がないのだと思っていた。
「俺だって、必要なものは読む」
ルーカスが手にした書類をひらひらと見せつける。
「それは書類でしょう。仕事の本もなしよ」
「物語も読んだことはある」
「どんな?」
尋ねると、ルーカスは一瞬だけ黙った。恋愛小説の本棚にゆっくりと歩み寄り、アルファベット順の背表紙を辿る。そしてやがて、一冊の本を抜き取った。
「例えば、これ」
リディアの呼吸が止まった。
手に取ったのは、幼い頃から何度も読んできた物語と同じ本だった。
装丁は新しい。けれど、表紙の意匠も題名も間違いない。
「知っているの?」
「昔、お前が読んでいただろ」
胸の奥が大きく揺れた。初めて会った日。あの日、リディアが読んでいた本だ。
ルーカスは本の表紙へ目を落とした。
「人は、己が選びし道と信ずるならば、いかなる運命をも幸福と呼ぶ」
聞き慣れた一節。何度も読み返し、口にしてきた言葉。
けれど、自分ではない誰かの声で聞いたのは、あの日以来だった。
リディアは本を抱えたまま、動けなかった。
「……どうして、覚えているの?」
声がかすれた。
ルーカスは本を見下ろしたまま、しばらく答えなかった。やがて顔を上げる。青い瞳が、真っ直ぐにリディアを見た。
「忘れられなかった」
冗談めかした響きはなかった。
「お前が、あまりにも大事そうにしていたから」
心臓が、大きく脈打った。
この男は、人を戸惑わせるためなら平気で甘い言葉を口にする。真に受けてはいけない。そう分かっているのに、目を逸らすことができなかった。
ルーカスは本をリディアへ差し出す。
「これはお前に贈ろう」
「……結構よ。もう持っているから」
「お前のはもうボロボロだろう」
なぜ知っているのだろうか。
いや、学園でも自分はあの本を持ち歩いていたから、気づく機会はあったはずだ。でも、ルーカスがそんなところまで見ていたとは思わなかった。
リディアは差し出された本を受け取った。
新しい表紙。傷一つない頁。
ルーカスから、遅れて贈られた一冊。
胸の中に積み上げてきた嫌悪が、簡単に消えるわけではない。
昔のことも、彼の傲慢さも。許せない理由は、今もいくつも残っている。
けれど、その奥に小さな亀裂が入った。
ルーカスは、何も覚えていないわけではなかった。
自分が大切にしていた本も、言葉も、ずっと覚えていた。
たったそれだけのことが、どうしてこんなにも嬉しいのだろう。
◇◇◇
書店を出て、屋敷に着く頃にはすっかり日が暮れていた。
馬車はエヴァレット伯爵邸の門をくぐり、玄関前で停まった。御者が扉を開ける。
リディアが降りようとすると、ルーカスが先に外へ出て手を差し出した。
「一人で降りられるわ」
「意地を張るな」
差し出された手を無視するのも大人げない気がして、リディアは仕方なく指先を重ねた。
ルーカスの手は大きく、思っていたより温かかった。
地面へ降りると、すぐに離すつもりだった。けれどルーカスは、ほんの一瞬だけ指を握り直した。
「今度は、もう少し遠くへ行くか」
不意にルーカスが言った。
「今度?」
「今日で終わりだと思っていたのか?」
「どこへ行くの?」
尋ねてから、しまったと思った。これでは、行くことを前提にしているようではないか。
ルーカスは案の定、満足そうに口元を上げた。
「アルディン領の北に、古い修道院がある。今は礼拝堂の一部を図書館として開放しているらしい」
「図書館?」
「珍しい写本も残っているそうだ」
リディアの心が僅かに動いた。
わざとだ。ルーカスは、リディアが断れない場所を選んでいる。
「随分、私の好みを調べたのね」
「長い付き合いだ。調べるまでもない」
その言い方に、また胸の奥が揺れた。
長い付き合い。確かに、幼い頃から知っている。けれどリディアにとって、その大半は思い出したくない記憶だった。
ルーカスにとっては、違うのだろうか。
「……考えておくわ」
「行くという意味だな」
「違うわ」
「お前の『考えておく』は、だいたい受け入れるという意味だ」
リディアは口を閉じた。
修道院の図書館には興味がある。珍しい写本も見てみたい。
そして何より、ルーカスがどんな顔でそこを案内するのか、少しだけ気になってしまった。
「……本当に、意地が悪い」
ルーカスは満足そうに笑った。
「では、五日後に迎えに行く」
「まだ行くとは言っていないわ」
「それなら五日後に断れ」
そう言い残し、ルーカスは馬車へ戻っていった。
そのまま帰るのかと思ったが、不意に振り返る。
「そのドレス」
リディアは身構えた。
また体型を笑うつもりだろうか。
「似合ってる」
意味を理解するまでに、少し時間がかかった。
ルーカスはリディアの反応を待たない。
「赤毛には緑が合うな」
それだけを言い残し、馬車に乗っていった。
一人残されたリディアは、しばらく動けなかった。
遠ざかっていく馬車を、玄関前に立ったまま見送る。
やがて、自分の頬が熱を持っていることに気づいた。
「……何なの」
◇◇◇
ルーカスを見送ったあと、リディアは自室へ戻った。
侍女が淹れてくれた紅茶はすっかり冷めていたが、飲む気にはなれなかった。
今日買った本を膝へ置き、頁を開く。けれど、文字はまったく頭に入ってこない。
今日一日で、たくさんのことが起こった。
自分をいじめていた大嫌いな幼馴染との再会。そして、書店で見せた彼の違う顔。
リディアはベッドに腰掛けると、そっと目を閉じた。
王立学園時代の、消し去ろうとしていた記憶が引きずり出される。
幼い頃。“丸パン”と笑われ、本を取り上げられ、泣かされた日々。
しかし学園へ入学すると、徐々に露骨ないじめやからかいはなくなっていった。
ルーカスは学園でも目立つ友人たちに囲まれ、リディアへ話しかけることもなくなった。
もう、自分のことなど忘れたのだと思っていた。
――あの日までは。
『丸パン』
放課後、廊下で突然呼び止められた。
振り返ると、制服姿のルーカスがすぐ後ろに立っていた。
そのまま耳元へ顔を寄せ、吐息のように囁く。
『今夜、俺の部屋へ来い』
あまりにも当然のように言われて、理由も聞けなかった。
断ればいい。なのに、断れなかった。
昔からそうだった。嫌だと思っても、ルーカスの青い瞳を見ると逆らえなくなる。
夜になって、リディアは男子寮へ向かった。
扉を開けると、ルーカスは何も言わず腕を引いた。
そしてそのまま、朝まで部屋を出ることはなかった。
思い出したくない、苦い記憶。
思い出すたび、自分があまりにも愚かだったことを突きつけられる。
あの夜だけでは終わらなかった。
ルーカスは気が向くと、リディアを呼び出した。
そして卒業の日。何の約束もないまま、彼は留学した。
一度の連絡もなく、一通の手紙もなかった。
まるで最初から、そんな関係などなかったかのように。
リディアは膝の上の本を強く抱き締める。
ルーカスは最低だ。忘れるべき男だ。そう何度も言い聞かせてきた。
なのに今日、名前を呼ばれただけで胸が高鳴った。
緑が似合うと言われただけで嬉しかった。
そんな自分が、一番嫌だった。




