第2話 嫌いなはずなのに
やはり、この男が大嫌いだ。
リディアは、再会してわずか数秒でそう確信した。
ルーカス・アルディンは応接室の窓辺に立ち、まるで自分の屋敷であるかのように堂々と庭園を眺めていた。
長椅子に座って待っていればよいものを、わざわざ窓辺に立っていたらしい。外から差し込む午後の日差しが、艶のある黒髪を淡く照らしている。
整った横顔。広い肩。父よりも、さらに頭一つ近く高い。
学園を卒業した頃よりも、ずっと大人びていた。けれど、こちらを見下ろす青い瞳に浮かぶ、人を食ったような光は何一つ変わっていない。
「相変わらず、随分と俺を待たせる」
リディアは開いた扉の前に立ったまま、返す言葉を失った。
約束の時刻にはまだ少し余裕がある。むしろ、早く到着したのはルーカスの方だ。それを、まるでリディアが待ち合わせに遅れたかのように言う。
「私は遅れていないわ」
ようやくそれだけを返すと、ルーカスは目を細めた。
「昔よりは言い返せるようになったな」
「あなたが昔と変わらず失礼なだけよ」
悪びれた様子もなく、ルーカスはリディアの頭から足元までを遠慮なく眺めた。視線が髪へ、顔へ、首元へと移り、最後には身体の線を隠すように仕立てられたドレスの上で止まる。
あまりに不躾な見方に、リディアは反射的に腕を胸の前で組みそうになった。
「何?」
「いや」
ルーカスは口元にかすかな笑みを浮かべた。
「少し見ない間に、随分女らしくなったと思って」
頬に熱が集まった。褒められたからではない。品定めするような口調に腹が立ったのだ。
「久しぶりに会った女性へ、最初に言うことがそれなの? 相変わらず品のない人ね」
「褒めてるんだ。嬉しいだろ?」
どこに喜ぶ要素があるのだろう。
昔からそうだった。ルーカスは、リディアが怒っても、泣いても、嫌がっても、すべてを自分に都合よく解釈する。そして最後には、リディアの方が大げさに騒いでいるような顔をする。
ルーカスは当然のように長椅子へ腰を下ろした。そのふてぶてしい態度が、いちいち鼻についた。
「座れよ。婚約相手と立ち話をする趣味はない」
「まだ婚約は決まっていないわ」
「そうなのか?」
さも不思議そうに返され、リディアは立ったまま彼を睨んだ。
「断られないと思っているの?」
「思っている」
リディアは返す言葉を失った。その自信がどこから来るのか、本気で分からない。
「俺の家はエヴァレット領との関係を強化できる。お前の家は優秀な婿を取れる。この上なく有益な縁談だろう」
あまりにも合理的な答えだった。
胸の奥がわずかに沈む。当然だ。そこに特別な理由などあるはずがない。
「それに、お前は断らない」
「……随分な自信ね」
「俺だからな」
「あなたは、自分がこの世で一番魅力的な男だとでも?」
「少なくとも、俺より顔のいい男には会ったことがないな」
悪びれもせずそんなことを言うルーカスを見て、リディアは頭が痛くなった。
呆れた様子のリディアに気づいたのか、ルーカスが立ち上がり、彼女のそばへ歩み寄る。
「冗談だ。何か言え」
「あなたが言うと冗談には聞こえないわ」
「だが、お前が断らないと確信しているのは本当だ」
背の高いルーカスが、リディアに影を落とす。
距離が近い。微かな香水と革の匂いに、学園時代の記憶が不意に蘇った。
「お前は昔から、嫌なことでも黙って受け入れるから」
胸を突かれたような気がした。
自分の表情を見られたくなくて、リディアは俯いた。
「勝手なことを言わないで。あなたに私の何が分かるというの」
「長い付き合いだろう」
そう言って、ルーカスの視線がリディアの手元へ落ちた。いつの間にか、指先を強く握り込んでいる。
ルーカスがその手をほどくように、そっと触れた。リディアの身体がびくりと震える。
「それに……俺はお前がいいんだ」
突然の言葉に、心臓を鷲掴みにされたような気がした。
なぜ、そんなことを言うのだろう。意味が分からない。
婚約者を探しているなら、自分を立て、愛想よく振る舞う令嬢の方がよいはずだ。
リディアは社交が得意ではない。夜会も好きではない。領地経営についても、後継者として一通り学んではいるものの、実務経験はほとんどなかった。
「……なぜ、私がいいの?」
心臓が大きな音を立てている。自分はルーカスに、いったいどんな答えを期待しているのか。リディア自身にも分からなかった。
ルーカスは彼女を見て、目を細めた。
「お前は面倒じゃないからな。一緒にいて楽なんだ」
面倒ではない。
その言葉に、少し落胆したような、安堵したような気持ちになった。
「……あなたが昔から何も変わっていないことが分かって、安心したわ」
「褒め言葉として受け取っておく」
ルーカスは肩を揺らして笑った。その笑い方まで、昔と同じだった。
リディアが言い返せずに泣き出すと、いつも彼はこんなふうに楽しそうに笑っていた。
「嫌なら、嫌だと言えばいい。なのにお前は、さっきから一度も婚約を断るとは言わないんだな」
何も言い返せなかった。
家のため。父のため。領地のため。断れない理由なら、いくらでも思いつく。
自分が拒めば、父が困る。家に不利益が出るかもしれない。
そう考えると、ただ嫌いだという理由だけで縁談を捨てることが、ひどく身勝手に思えた。
「……押せば折れる女だと思っているのね。そう思っているから、婚約を申し込んだのでしょう」
「違う」
短い否定だった。
いつもの軽さがなかったため、リディアは思わず顔を上げた。
端正な顔が思いのほか近くにあり、思わず息を呑む。
「リディア。さっきも言っただろう。俺は、お前だから婚約を申し込んだんだ。お前なら……」
――リディア。
その名前を、彼の口から聞くのは何年ぶりだろう。
幼い頃も、学園でも。彼はずっと、自分を“丸パン”か“お前”としか呼ばなかった。
真っ直ぐに自分を見る青い瞳に吸い込まれそうになり、リディアはその場から動けなくなった。
「私なら?」
「……少なくとも、俺の顔だけを見て寄ってくる女よりは信用できる」
リディアは目を瞬いた。
ほんの一瞬、何と返せばよいのか分からなかった。
「……からかったの?」
ルーカスは、悪戯を成功させた子どものように笑った。先ほどまでの、相手を弄んで楽しむだけの笑い方とは、少し違って見えた。
リディアはその違いを考えたくなくて、視線を逸らした。
「ともかく、私はあなたと結婚して幸せになれるとは思えないわ」
「昔のことを気にしているのか?」
「……っ」
ルーカスの方からそのことに触れるとは思わなかった。リディアは動揺し、何も言えなくなる。
ルーカスはしばらく何も言わなかった。やがて小さく息を吐き、ぽつりと呟いた。
「悪かった」
リディアは顔を上げた。聞き間違いかと思った。
「今、何て?」
「悪かったと言った」
「あなたが? 熱でもあるの?」
「謝られておいて、その態度は何だ」
いつもの不機嫌そうな声に戻った。それでも、先ほどまでの余裕は少し薄れていた。
ルーカスは苛立ったように髪を掻いた。整えられていた黒髪が、わずかに乱れる。
「……お前をそこまで傷つけたとは思っていなかったんだ」
謝罪というより、これ以上責められるのが面倒になったような口調だった。
それでも、ルーカスが自分の非を認めたことなど、これまで一度もない。
リディアは戸惑った。怒り続けるべきなのか、それとも謝罪を受け入れるべきなのか。どうすればよいのか分からなかった。
「それで許されると思わないで」
「思ってない」
ルーカスは少しばつの悪そうな顔で、リディアを横目に見た。
「だが、これだけは覚えておけ」
「何?」
「俺に謝らせた女は、お前が初めてだからな」
謝罪を受け入れる選択肢が一瞬でも浮かんだことを、リディアは後悔した。
この男に反省を期待した自分が愚かだった。
ため息をつき、ようやく長椅子へ腰を下ろす。立ち続けていた脚に、遅れて疲労が広がった。
ルーカスはそれを、婚約話が一歩進んだ証拠とでも思ったのか、満足そうに口元を緩めた。
「よし、行くぞ」
「え?」
せっかく座ったばかりなのに、突然ルーカスがリディアの腕を取り、立ち上がらせようとする。
「城下へ出かける」
「あなたと? 行くわけないでしょう」
「城下に新しい書店ができた」
新しい書店。
その言葉を聞いた途端、リディアの言葉が止まった。
ルーカスはそれを見逃さなかった。
「珍しい外国の本も入れているらしい。行きたいだろ?」
「……あなたと行く必要はないわ」
「意地を張るな」
少し強引に引き寄せられる。
あまりにも身勝手な振る舞いだというのに、はっきりと断れない自分にも苛立った。
「嫌なら、嫌だと言えばいい」
ルーカスが、先ほどと同じ言葉を繰り返す。
その口元には、勝ち誇った笑みが浮かんでいた。
断ればいい。腕を振り払い、この場から出ていけと言えばいいだけだ。
けれど、城下に新しくできた書店には行ってみたい。珍しい外国の本があるという話も、気にならないと言えば嘘になる。
それに――もう少しだけ、ルーカスと話してみたいと思ってしまった。
リディアはそんな自分を認めたくなくて、顔を背けた。




