第1話 婚約者は私をいじめた幼馴染
「女がその乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎の子を憐れまないことがあるだろうか」
——イザヤ書 49章15節
◇◇◇
「人は、己が選びし道と信ずるならば、いかなる運命をも幸福と呼ぶ」
それは、リディアの一番好きな本の、一番好きな一節だった。
何度も何度も読み返し、擦り切れた本の一頁。その言葉を、ふいに自分ではない誰かが読み上げた。
リディアは驚いて顔を上げた。
木陰に座る彼女の背後から本を覗き込んでいた少年は、この世のものとは思えないほど美しかった。
風に揺れる漆黒の髪。透き通るように白い肌。そして、夏空を閉じ込めたような青い瞳。
こんなにも美しい人間を、リディアは見たことがなかった。
「その本、好きなの?」
少年は屈託なく尋ねた。
リディアは緊張のあまり声を出せず、ただ黙って頷いた。
「へえ。じゃあ、俺も読んでみようかな」
少年はもう一度、開かれた頁へ視線を落とした。
「今の言葉、好きかも」
その瞬間、俯いていたリディアは弾かれたように顔を上げた。
「わ、私も……!」
思いのほか近くに少年の顔があり、慌てて目を逸らす。頬が燃えるように熱かった。
「私も、その言葉が……一番好きなの」
消え入りそうな声だった。本を握る手は、微かに震えている。
少年は少しだけ目を丸くしたあと、眩しそうに笑った。
「ねえ、名前は?」
「……リディア」
「リディアか。俺はルーカス」
少年は彼女の名を確かめるように、もう一度口にした。
「またな、リディア」
そう言い残すと、ルーカスは陽だまりの中へ軽やかに駆けていった。
リディアは追いかけることもできず、その背中が見えなくなるまで、ただ黙って見つめていた。
それが、リディアとルーカスの出会いだった。
そして――長い時を経ても解けることのない、呪われた恋の始まりだった。
◇◇◇
エヴァレット伯爵邸の書斎で、リディアはそっと本を閉じた。
何度も何度も読み返したため、頁の端は丸くなり、綴じ糸もところどころ緩んでいる。幼い頃、街の古書店で見つけた物語だ。名高い文学作品でもなければ、豪華な装丁が施されているわけでもない。名も知られていない作家が遺した、ありふれた恋物語だった。
それでもリディアにとっては、どんな宝石よりも大切な一冊だった。
物語の中の人々は、現実の人間よりもずっと分かりやすい。
愛している者は愛していると、憎んでいる者は憎んでいると、文章が教えてくれる。どれほどすれ違っても、最後には必ず本当の気持ちが明かされる。
そして頁を閉じてしまえば、彼らはそれ以上リディアを傷つけない。
だから、リディアは本が好きだった。
窓辺の長椅子に身を沈め、見慣れた本の表紙へ目を落とす。午後の日差しが赤褐色の髪を照らし、柔らかな巻き毛の輪郭を淡く縁取っていた。
リディアは、自分の髪が好きではない。
きちんと梳かしても、しばらくすれば勝手な方向へ跳ねてしまう。雨の日にはさらに膨らみ、侍女が時間をかけて結い上げても、細い後れ毛が顔の周りに落ちてきた。
身体つきも、流行の令嬢たちとはほど遠かった。
華奢な腰や、折れそうに細い腕とは無縁だ。太ってはいないが、少し丸みがあり、胸元ばかりが無駄に目立つ。顔立ちにしても、醜いとは言われないが、夜会で人々の視線を集めるような美しさはない。
鏡を見るたび、リディアは自分が物語の主人公にはなれない人間なのだと思った。
主人公の隣に立ち、幸せそうな二人を遠くから眺めている、名前すら与えられない令嬢。
そのくらいが、きっと自分には相応しい。
「リディア」
扉の隙間から顔を覗かせたのは、父であるローレンス・エヴァレット伯爵だった。
父の用件は分かっている。ついに来たか、とリディアは心の中でこっそり溜息を吐いた。
リディア・エヴァレット。エヴァレット伯爵家の一人娘。三年前に王立学園を卒業し、今年で二十一歳となる。
エヴァレット家には代々受け継ぐ役目があるため、後継者であるリディアは、できるだけ早く夫を迎える必要があった。
「……もしかして、縁談の話?」
「察しがいいね。入っても?」
当主が娘の部屋を訪ねるにしては、あまりに遠慮がちだった。自分の屋敷なのだから堂々と入ればよいのに、父はいつも使用人のように許可を待つ。
細身の身体に、リディアと同じ赤い髪。穏やかに垂れた目尻には、頼りなささえ漂っている。
彼が声を荒らげたところを、リディアは一度も見たことがなかった。
母は、そんな夫とは対照的に、背筋の伸びた女性だった。社交界では、気弱な夫を支える賢夫人として知られている。
政略結婚で結ばれたにもかかわらず仲睦まじい両親に、リディアは密かに憧れていた。
「読書中だったかな。邪魔をしてしまったね」
ローレンスはリディアの向かいへ腰を下ろした。
いつもより少しだけ改まった父の様子に、軽い話ではなさそうだと察し、リディアも姿勢を正す。
「先方から、正式に申し入れがあった。家柄に問題はない。付き合いも長く、領地も隣接しているから、家同士の利点も多い。相手はこちらへ婿入りすることも承諾している」
そこまで聞いて、リディアは小さく息を吐いた。
珍しい話ではない。貴族の結婚は、家と家を結ぶものだ。領地が隣り合っているなら、婚姻によって交易や防衛の連携を深められる。さらには婿入りまで承諾しているのであれば、これ以上ないほどの好条件だろう。
「どちらのお家なの?」
「アルディン伯爵家だよ」
父が口にした家名を、リディアはすぐには理解できなかった。
窓の外で、枝にとまっていた鳥が羽ばたいた。ぱさりと葉が揺れる小さな音が、妙に鮮明に耳へ届いた。
「……アルディン伯爵家?」
喉がひどく乾いた。
アルディン伯爵家に、リディアと同い年の未婚の男子は一人しかいない。
「ルーカス・アルディン。リディアもよく知っているだろう?」
知らないはずがない。忘れられるはずがない。
その名前を聞いた瞬間、胸の奥に長く沈殿していた感情が一斉に掻き回された。
嫌悪、羞恥、怒り。そして、それらを覆い隠すように積もった、鈍い痛み。
リディアは無意識に、膝の上の指を強く握っていた。
ルーカス・アルディン。アルディン伯爵家の次男。
幼い頃から知っている。そして、幼い頃から大嫌いな男だった。
両家の領地が近いため、幼少期には互いの屋敷を訪れる機会が多かった。
黒髪に、澄んだ青い瞳。子どもながら、絵本に登場する王子のように整った容姿をしていた。
『お前、丸パンに似ているな』
ある日、ルーカスが突然そう言い出した。
丸パンはその頃、城下町で流行していた菓子パンだった。果物を練り込んだ赤茶色の生地と、ふっくらと丸い形が特徴だった。
その日から、リディアはルーカスに“丸パン”と呼ばれるようになった。
やがて、周囲の子どもたちまで真似をし始めた。同世代の者たちは誰も彼女の名を呼ばなくなり、どこへ行っても“丸パン”という笑い声が追いかけてきた。
その頃から、ルーカスは会うたびにリディアをからかうようになった。
髪を引き、リボンを解き、読んでいる本を取り上げる。そしてリディアが最も言われたくない言葉を狡猾に選び、投げつけてきた。
『また丸くなったんじゃないか』
『そんなに本ばかり読んでるから、誰とも喋れないんだ』
『お前みたいな陰気な女、誰が好きになるんだろうな』
言い返せないリディアを、ルーカスはいつも面白そうに眺めていた。
彼の周りには、自然と人が集まった。明るく、話がうまく、何をしても人より優れていた。
そんな彼が見下すリディアを、周囲の子どもたちも自然と見下すようになった。
皆が同じようにリディアをからかい始め、その行動は徐々にエスカレートしていった。持ち物を奪われ、ときには大切にしていた物を壊されることさえあった。
ルーカス自身が壊したわけではない。
けれど、リディアをいじめる子どもたちの中心には、いつも彼がいた。
そうして王立学院へ入学する十五歳まで、リディアの子ども時代の思い出は暗いものとなった。
「嫌なら断っていいんだよ」
父の声に、リディアは過去から引き戻された。
ローレンスは静かな目でこちらを見ていた。
「アルディン家にも、こちらから無理に話を進めるつもりはないと伝えてあるからね」
「でも、なぜ今さら……」
そこまで言いかけて、リディアは思い出した。
アルディン伯爵夫妻は、ここ数年、公の場へ姿を現していない。体調を崩し、南方の別邸で長期療養していると聞いていた。
当主夫妻の療養が長引くアルディン家では、領地経営が苦しくなっているという。
隣接するエヴァレット家と婚姻関係を結べば、街道整備や農地管理、交易面での支援を受けられる。次男であるルーカスが婿入りするなら、アルディン家の家督にも影響しない。
一方、エヴァレット家には、将来リディアを補佐してくれる優秀な婿が必要だった。
これは両家にとって理に適った、理想的な縁談だった。
「……家のためには、受けた方がいいのよね」
ローレンスは答えなかった。
困ったように視線を伏せ、指先を組み合わせる。
「リディア。私はね、どちらでもいいんだ」
彼の声は穏やかだった。
「君が決めなさい、リディア」
――どちらでもいい。君が決めなさい。
リディアは、父のこの口癖があまり好きではなかった。
どちらでもいいと言われるたびに、自分の選択など家族にとって大した意味を持たないのだと、そう言われているような気がした。
「利益がないとは言わないよ。けれど、リディアの人生を犠牲にしてまで必要な縁談ではない」
父は優しい。リディアが嫌だと言えば、決して強制しないだろう。
だからこそ、余計に困るのだ。
命じられたなら、従えた。家のために結婚しろと言われたなら、自分の気持ちを押し殺す理由にもなった。
けれど選択を委ねられてしまえば、その先に起こることはすべて自分の責任になる。
本を握りしめたまま言葉を詰まらせるリディアを見て、ローレンスが優しい声で言った。
「今すぐ決める必要はないよ。一度、ルーカスと会ってみたらどうかな?」
会いたくない。反射的にそう思った。
けれど、口にはできなかった。
リディアは窓の外へ目を向けた。
庭園の向こうに、エヴァレット領の森が広がっている。そのさらに向こうが、アルディン領だ。
幼い頃から近くにありながら、ルーカスの留学後は一度も足を運んでいない。
彼が国へ戻ったことは知っていた。社交界で派手に遊び歩いているという噂も、嫌でも耳に入ってきた。
美しく、才能に恵まれ、女性の扱いにも慣れている。
昔から、人を惹きつける男だった。
しかしリディアにとっては、どれほど美しく成長しようと、自分を泣かせて喜んでいた少年でしかない。
「……会うわ」
声に出した瞬間、指先がわずかに震えた。
ローレンスが心配そうに顔を覗き込む。
「無理をしなくてもいいんだよ」
「無理なんてしてない。まずは話してみるだけだから」
しばらく沈黙したあと、父は安堵したように微笑んだ。
「では、明日の午後に来てもらおう」
「……明日?」
思わず顔を上げる。
早すぎる。まるでリディアが会うと答えることを、初めから知っていたかのようだった。
けれどローレンスは、娘の動揺には気づかなかったらしい。
「都合が悪かったかな」
「いえ……」
嫌なら断ればいい。もう少し時間が欲しいと、一言言えばいい。
そう思うのに、また言えなかった。
ローレンスはどこかほっとした表情で立ち上がった。
「それなら、先方に伝えておくね」
扉へ向かう父を見送りながら、リディアは胸の奥に広がる重さを持て余していた。
退室する直前、ローレンスが振り返る。
「リディア。どんな結論を出しても、私は君の味方だよ」
そう言って微笑むローレンスは、どこから見ても優しい人だった。
気弱で、穏やかで、娘を心から案じている父親。
なぜだかそんな父を見ると、リディアは彼を守らなければならないような気持ちになる。
リディアは微笑み返した。
「ありがとう、お父様」
一人になった部屋で、リディアは長く息を吐いた。
膝の上へ、先ほどの本を戻す。けれど文字を追おうとしても、意味が頭へ入ってこない。
頁の上で、幼いルーカスの笑顔がちらついた。
明日、あの男がこの屋敷へやって来る。
その夜、リディアはほとんど眠れなかった。
◇◇◇
翌日の午後。鏡の前に座りながら、リディアは何度目か分からない溜息を呑み込んだ。
侍女が丹念に整えた赤毛は、後頭部で緩くまとめられている。けれど額や耳元には、すでに細い巻き毛が落ち始めていた。
「とてもお似合いです」
侍女はそう言ったが、リディアには慰めにしか聞こえなかった。
選んだドレスは深い緑色だった。赤毛にはよく合うが、胸元が目立ちすぎないよう、襟の詰まった型を選んでいる。
ルーカスは自分に会って、何と言うのだろう。
また太った。髪が鳥の巣のようだ。心ない言葉が次々と頭に浮かび、想像するだけで気が重くなる。
それなのに、心臓は落ち着きなく脈打っていた。
彼に会うのを恐れているからだ。それ以外の理由など、あるはずがない。
階下から、馬車の到着を知らせる音が聞こえた。
リディアは立ち上がる。逃げ出したい気持ちを、本を閉じるように胸の奥へ押し込めた。
止めどなく浮かぶ悪い想像を打ち消しながら、応接室へ向かう。
扉の前で立ち止まり、一度だけ深く呼吸した。
扉を開くと、窓から差し込む午後の光の中に、一人の男が立っていた。
艶のある黒髪、鮮やかな青い瞳、すらりとした長身を包む、仕立てのよい濃紺の礼装。
数年ぶりに目にしたルーカスは、息を呑むほど端正な青年へと成長していた。
こちらを振り向いた男の唇が、ゆっくりと弧を描く。
その笑い方だけは、昔と何一つ変わっていなかった。
「久しぶりだな、丸パン」
ルーカス・アルディンは、まるで昨日も会っていたかのように笑った。
「相変わらず、陰気な顔だ」
再会して最初の一言で、リディアは確信した。
やはり、この男が大嫌いだ。




