四章八話 窓のない地図室
《辺境者の歌》 四章 八節
『窓なき地図室で引かれる線ほど、外の風に怯える。』
2374- 第一王城西棟地図室 記録官視点
王城西棟の地図室には、窓がなかった。
外の空を見せないためではない。
地図を湿気で歪ませないためだと、記録官は聞いている。
それでも、夜にここへ入ると、閉じ込められたような気分になる。
卓上には王都周辺図。赤い札。青い札。
黒い細紐。回付印の乾ききっていない書類。赤は軍用。
青は民用。黒は、未確認。黒い紐が増えていた。
「西外縁、またですか」
記録官が言うと、軍務士官は眉間を押さえた。
「また、と言うな。まだ、だ」
「まだ」
「まだ戦にはなっていない」
その言い方は、少し苦しかった。
第二王子派の文官が、卓の端で薄く笑った。
第二王城近衛会議の紙を持ってくる時だけ、あの男は妙に姿勢が良い。
「戦ではないなら、軍用優先はおかしいのでは?」
「補給路の確認です」
「補給という言葉は便利ですね。何でも通せる」
地図室の空気が少し固くなる。記録官はペン先を布で拭いた。
こういう時は、紙を見るに限る。人を見ると、余計なものが見える。
議席の数だとか、誰の写しを先に回したかだとか、そういう顔まで見える。
「北二番水場の反射報告」
軍務士官が紙を一枚出した。
「西詰所から上がったものだ。民用道標の不備だが、夜間搬送に影響がある」
文官が紙を見た。
「誰の報告です」
「羽黒承。冒険者見習い、王城登録あり」
「転移者ですか」
その言葉で、記録官の手が止まった。転移者。勇者。
客人。戦力。呼び方だけで、立場が変わる。
森田ロハンは、部屋の隅で黙っていた。
黙っているだけで、誰よりも目立つ時がある。
「彼は、今は西詰所です」
森田が言った。
「今は?」
文官が聞き返す。
「はい。今は」
それ以上は言わない。軍務士官が黒い紐を一本、地図に置いた。北二番水場。
旧木炭道。西外縁補給路。
そのさらに先、地図の端にはノエホ地方と薄く刷られていた。
古い石橋の記号には、ゴルペホ橋梁線という小さな注記が添えられている。
細い道ばかりだ。王城の式典図には載らない。
貴族の馬車道にもならない。でも、荷車は通る。
「第二王子殿下の使節団が、西回廊を通る可能性があります」
伝令が言った。部屋の端で、誰かが小さく咳をした。可能性。
使節団。西回廊。どれも、まだ戦争ではない言葉だ。
議場に持ち込めば、ただの許可申請で済む言葉でもある。
ただ、言葉の下に刃がある。
「帝国の商隊も同じ道を求めています」
記録官は、聞いたまま書いた。
帝国。
その文字を書く時だけ、ペン先が少し引っかかった。
「商隊ですか」
軍務士官が言う。
「商隊です。少なくとも、書類上は」
第二王子派の文官は、肩をすくめた。
「道は開かれているべきです。王国は閉じた国ではない」
「荷車が沈む道を、開いているとは言いません」
軍務士官の声が低くなる。
文官は笑わなかった。
森田が、そこで初めて卓へ近づいた。
「道標の話に戻しましょう」
静かな声だった。
だが、皆が少し黙った。
「誰が通るかを争う前に、どこで迷うかを知るべきです。迷う道は、兵も商人も同じように呑みます」
記録官は、その言葉を書こうとしてやめた。議事録に残すには、少し詩のようだった。代わりにこう書く。
西外縁道標、軍民共通危険箇所。追加確認要。
西詰所記録を参照。文官が渋い顔をした。
「民用の軽依頼を軍務地図に載せるのですか」
「軽依頼で済むうちに載せます」
軍務士官が答えた。
「重くなってからでは、地図は間に合わない」
返事は、すぐには返ってこなかった。
黒い紐が、また一本増えた。
地図にない道が、地図の上で見えるようになる。
記録官はその細さを見ていた。
記録官は、通行許可の欄に細い線を引いた。
その横に、小さく「議会照会前」と書き足した。
濡れた道標。戻らない荷車。
黒い紐。砲声は、まだない。
それでも、卓の上の紙は前より確実に増えていた。
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