七章九話 戻らなかった手
《王録》 七章 九節
『戻る道を測る者は、戻らぬ足跡の数も知る。』
襲撃の後始末は、戦闘より長かった。
壊れた通信台を予備線につなぎ替え、土嚢列の薬莢を拾い、血のついた包帯を焼く。火は小さく、匂いだけがやけに強かった。
橋梁線の前では、まだ砲声が続いている。
ここは後方接続点で、前線ではない。
そのはずなのに、土の上には人が倒れた跡が残っていた。靴の滑った線。膝をついたくぼみ。誰かが手をついた場所だけ、泥が五本に割れている。
獣ではない。
魔物でもない。
手の形だった。
✶
死亡確認は、少し遅れて来た。
北東林へ下がった杖持ちの一人が、林内の浅い溝で見つかったらしい。水車小屋からの十ミリ弾が太腿の内側へ入り、護衛が止血を試みた跡があった、と報告された。
止血帯には、帝国軍の布ではなく、私物のスカーフが使われていた。
色は褪せた青。
端に、手縫いの目が残っていた。
報告兵は、それを戦利品袋へ入れて持ってきた。まだ若い兵だった。鼻の下に泥がついていて、本人は気づいていない。袋を持つ両手だけが、やけに丁寧だった。
「敵支援一、死亡確認。杖術兵と思われます」
「杖術兵」
僕が繰り返すと、報告兵は頷いた。
「はい。結界補助具、折損。兵籍札あり。文字は帝国式です」
袋の中に、薄い金属札があった。文字は読めない。読めないのに、名前だと分かった。
番号ではなかった。呼ばれるためのものだった。
✶
記録係が、損害表を差し出した。味方負傷三。通信器材一、破損。
敵捕縛一。敵死亡一。敵後退二以上。
そこまでは、字で読めた。その下に、確認欄があった。戦果原因。
水車小屋火点。指揮者。僕の名前を書く場所だった。
今日一日で、僕の名前が入る欄は、これで四つ目だった。四つとも、内容は違う。重さは同じだった。
羽黒承。書けば終わる。書かなければ、誰かが困る。
報告書は、人が困らないように作られている。死んだ人間以外が困らないように。
僕はペンを持った。
指先に、さっき抜いた三発目の重さが残っている。撃たなかった弾の重さだ。撃たなかった弾の方が、撃った命令より軽いはずだった。
逆だった。
名前を書いた。
線が少し曲がった。
「確認しました」
声は出た。
声が出たから、仕事は続いた。
✶
捕縛した中英雄級の男は、救護天幕の外側に寝かされていた。
敵兵にも包帯は使われる。
当たり前だ。
当たり前のことに、少し遅れて腹が重くなる。
男の顎の傷は、近くで見ると古い火傷の跡だった。髭は短く刈られている。耳の後ろに汗が乾いて白くなっていた。鎧の下の布は、何度も洗われて薄くなっている。
仕事の顔で殺しに来た人間。
仕事の途中で倒された人間。
顎の火傷跡は同じ場所にある。
違ったのは、剣を握っていた手が、もう何も握っていないことだけだった。
下士官が横に立った。左腕には包帯。裂けた革手袋は、まだ外していない。
「准尉、尋問班へ引き渡します」
「はい」
「生かして捕ったのは大きいです」
彼は事実を言った。
僕も、それが大きいことは分かる。敵の術式、経路、指揮系統。聞けることはいくらでもある。
でも、僕の耳には、別の報告が残っていた。敵死亡一。
水車小屋火点。指揮者、羽黒承。
「杖術兵の遺体は」
「回収班が処理します」
「処理」
下士官は、短く息を吐いた。
「埋葬できる形にします」
言い直してくれた。
その言い直しで、少しましになった。
ましになったことが、また嫌だった。
✶
桜華さんのいる救護分室へ行ったのは、夕方だった。
行く予定ではなかった。
通信線の予備を確認して、弾薬箱の残数を見て、捕虜の護送経路を書いて、そのまま次の命令を待つはずだった。
でも、救護兵に呼ばれた。
「高橋桜華が、少し意識を戻しました」
名前を聞いた瞬間、報告書の文字が頭から落ちた。
救護分室は、布で仕切られた小さな場所だった。薬草の匂いが薄く、代わりに煮沸した水と濡れた包帯の匂いがした。外の砲声は、布越しに丸くなっている。
桜華さんは、寝台の上にいた。
顔色は紙みたいに薄い。
髪は短く切られていた。燃えた部分を落としたのだと思う。いつもの、廊下の向こうから人を呼ぶ明るさは、声より先に来なかった。
それでも目は開いていた。
「羽黒くん」
声は、細かった。
でも、桜華さんの声だった。
それだけで、胸の奥が変な動きをした。
視線を上げた時、桜華さんの頭上の数字がひどく揺れていた。精神の文字の隣に、欠けた英字が滲んでは消える。SANという形に見えた気もするが、確信は持てない。
自分の目が信じられなかった。今は、信じたくなかった。
「起きて、大丈夫なんですか」
「大丈夫では、ないらしいよ」
冗談にしようとして、途中で息が切れた。
桜華さんは笑わなかった。笑えなかったのかもしれない。唇の端だけが少し動き、すぐ戻った。
「私、また迷惑かけた?」
「迷惑ではないです」
「その返し、羽黒くんっぽい」
少し前なら、そこで彼女は笑ったと思う。
不老不死なんて便利そうだよね、と自分で軽く言って、周りを困らせる。そういうことをする人だった。怖さを、軽い言葉の形にして先に投げる人だった。
今は、投げる力がなかった。
✶
僕は寝台の横に立ったままだった。
椅子はあった。
座らなかった。
手袋に、まだ火薬の匂いが残っている気がした。洗ったはずだ。実際には、薬草と鉄と煙が混ざっていて、どれがどれか分からない。
「羽黒くん」
「はい」
「なんか、遠い」
桜華さんは、布団の上で指を動かした。
指先は細い。
爪の色が薄い。
その手を見た瞬間、泥に残った五本の跡が頭に戻った。
敵の手。桜華さんの手。同じ形をしていた。
当たり前だ。人間なのだから。
「今日、敵が来ました」
「うん」
「撃退しました」
「うん」
「一人、死にました」
そこまで言って、言葉が止まった。
桜華さんは、目を閉じなかった。
僕の方を見ている。見えているのか、焦点が合っているのかは分からない。でも、逃げる場所がなかった。
「僕が、撃たせました」
言うと、体の内側が少し冷えた。
桜華さんは、すぐには答えなかった。呼吸が浅い。胸の布が、小さく上下する。
「人?」
「はい」
「魔物じゃなくて」
「はい」
「名前、あった?」
読めなかった兵籍札を思い出した。
「ありました。読めませんでした」
「そっか」
それだけだった。責められなかった。
慰められもしなかった。その方が、逃げにくかった。
✶
桜華さんは、ゆっくり息を吸った。
「私さ」
「はい」
「死ねなかったんだよね」
その言い方は、確認に近かった。
僕は頷いた。
「はい」
「羽黒くんが、拾ったんだ」
「拾った、というか」
「拾ったんでしょ」
声は弱いのに、そこだけ少し桜華さんだった。
僕は言い返せなかった。小瓶。布。
低い生命。死ねなかった人。
死なせた人。同じ日に、その二つが僕の前に置かれた。
「私のこと、助けたって思えない?」
「分かりません」
「じゃあ、今日の人のことも、まだ分からないままでいいんじゃない」
桜華さんの声はそこで途切れた。
救護兵が近づきかけたが、彼女は小さく首を振った。
「分からないまま、忘れないで」
それは慰めではなかった。
命令でもない。
ただ、彼女の息の残りで作られた言葉だった。
僕は、はい、と言おうとした。
声にならなかった。
✶
救護分室を出ると、外は暗くなりかけていた。
橋梁線の方角で、また砲が鳴る。
遅れて、地面が薄く震えた。
伝令が走ってきて、僕に命令書を渡した。次の配置換え。北西側の排水路へ、予備弾薬を半分回す。敵の砲兵が射角を変えたらしい。
仕事は止まらない。
死んだ人間の名前が読めなくても。
桜華さんが、死ねなかったまま寝台にいても。
僕の手が、まだ手の形を覚えていても。止まらない。僕は命令書を開いた。
北西排水路まで、ここから六百歩。途中に泥の浅い場所が二つ。
弾薬箱は、十ミリが四箱、徹甲小銃弾が七箱。
数えられる。数えられることが、便利だった。便利だから、吐き気がした。
僕は一度だけ、手袋を外した。掌には、銃床の刻印の跡が薄く残っていた。人を殺した印ではない。
ただの圧痕だ。それでも、しばらく消えなかった。
――――――――
面白かったら、下記のリンクから評価やレビューをいただけると嬉しいです。
https://kakuyomu.jp/works/822139841314440520/reviews




