七章八話 止めるための火点
《王録》 七章 八節
『火点の灰は、踏まれた靴底へ先に移る。』
北東林から来る三つの点は、まっすぐではなかった。
大型突破車の後ろを使うわけでもない。歩兵の列に混じるわけでもない。黒松林の内側を斜めに抜け、湿地の縁を踏まず、こちらの伝令が通る細い道へ寄ってくる。
後方接続点から前線までは、近い場所で一・七キロ。北東林の切れ目までは、およそ八百歩。間には、半分だけ乾いた畦と、ペクワ班が昼に掘り返した浅い排水溝がある。
戦車は接近負荷が高い。だから、恐らく歩兵が来る。
そう考えると、納得できた。納得できたことが、嫌だった。
「六番仮、状況維持。こちらの件は知らせない」
僕が言うと、通信兵が短く頷いた。唇の端が白い。復唱は正確だったが、受話管を握る手だけが少し遅れて動く。
「接続点防護、何名出しますか」
下士官が聞いた。
彼は朝から同じ革手袋を使っていた。右手の人差し指だけ、縫い目が裂けている。地図に触る時、その裂け目から土のついた指が少し見えた。
「出しません。外へ出すと、ここだと教えます」
「では、中で受ける」
「中に入る前に、止めたいです」
言葉にすると簡単だった。
簡単な言葉ほど、後で人に重さを渡す。
✶
使える火点は三つあった。
一つ目は、古い水車小屋の裏。十ミリ機関銃が一挺、脚を低く置いてある。そこから北東林の切れ目までは、斜めに五百歩ほど。正面から撃つには遠いが、畦を渡る相手の横を押さえられる。
二つ目は、崩れた石塀の内側。徹甲小銃が二挺。こちらは距離が近い。三百歩を切る。ただし、一度撃てば位置が割れる。
三つ目は、接続点の手前に置いた短い土嚢列。火点というより、最後の止めだ。そこまで来られたら、もう後方接続点ではない。
僕は黒い印を三つ置いた。水車小屋。石塀。
土嚢列。その横に、青い細線を一本引く。
退避線。下士官が線を見た。
「土嚢列から、接続点まで八十歩です」
「はい」
「近い」
「近いです」
遠くできるなら、もうしている。
そう言いたくなって、やめた。言っても、線は伸びない。
✶
「井上さん」
名前を呼ぶと、井上希望が目を開けた。
彼女は通信台の横に座っていた。膝の上には薄い布を敷き、その上に小さな石を三つ並べている。残像を見る時、指先が勝手に動くらしい。石の一つは、何度も触られて角が湿っていた。
「友好側だけでいいです。水車小屋の班、見えますか」
「少し前なら」
「どれくらい前ですか」
「十秒。たぶん、十二秒までは行かない」
十二秒。
戦場では長い。教室で時計を見るなら短い。
彼女の能力は、今いる敵を見せてくれない。けれど、味方がどこにいたかを少し遅れて拾える。
「水車小屋の二人が動いたら、教えてください。撃ったかどうかではなく、下がったかどうか」
「分かりました」
「澄人」
沢渡澄人は、返事の前に荷札板を胸に寄せた。あの子は、困ると物を抱える。中学の廊下で、資料集を落とした時もそうだった。拾うより先に、残った一冊を抱えていた。
「赤布三本。水車小屋、石塀、土嚢列。戻れたら赤を倒す。倒れなければ、まだ残っている」
「倒れたら撤退済み」
「うん。倒れていなければ、僕が呼ぶよ」
澄人は頷いた。頷き方だけは、まだ学校の後輩に見えた。その後輩の前に、赤布を三本置いている。
倒れれば戻ったことになる。倒れなければ、まだ火点に残っている。
教室なら、忘れ物を数えるくらいの手順だったかもしれない。
ここでは、人を火点へ戻す合図になる。
✶
北東林の三つの点が、林を出た。
先頭の一人は、結界を纏っている。白い膜ではない。薄い膜が、服の縫い目に沿って貼りついているように見えた。鎧は軽い。剣は短い。走り方に、無駄が少ない。
その後ろに二人。
一人は杖。
一人は短い銃。
護衛が周囲に散っているという報告は正しかった。だが、護衛は主役ではない。主役は先頭の一人だ。
頭上の表示が、いつもの数字より濃く出た。生命の数字。桁が、いつもの『0』とは違う。
見間違いかと思って、もう一度見た。変わらない。
生きてきた年数じゃない。体力の残量でもない。
死んだ回数だ。
繋がった瞬間、顎の奥が硬くなる。今まで見てきた『0』は、誰も死んだことがないという意味だった。この男は、その桁を丸ごとひっくり返した場所にいる。
名前のなかった数字に、ようやく名前がついた。
死亡回数。
一度そう読めてしまうと、もう元の、ただの数字には戻らなかった。これからは、その名前で見える。
値は高い。こちらの兵とは比べ物にならない。
精神の数字にも、同じくらい厚みのある層が重なって見えた。読み切れない。何重にも死んで、その分だけ何かを失ってきたのかもしれない。そう思うと、これ以上は読みたくなかった。
「中英雄級、相当」
下士官が言った。
声は低い。驚きではなく、分類の声だった。
分類されると、殺し方が選べる。
僕はその考えが浮かんだことを、いったん横へ置いた。
「水車小屋方面、まだ発砲しないでください。先頭ではなく、後ろの杖を見てください」
「先頭を撃たないんですか」
「結界が厚いです。後ろの杖が、あの結界を支えているなら、先にそちらです」
支えているなら。
違っていたら、ただの杖持ちを撃つことになる。
ただの、という言葉が入った時点で、もうおかしい。
✶
敵は排水溝の前で止まらなかった。
先頭の男が、半歩だけ加速した。アクセラップに似ている。けれど、踏み込みの魔法陣が靴底からではなく、膝の内側から出たように見えた。
足場を借りていない。本人の身体で起こしている。STR。
短い表示が、脚の動きに重なる。高い。それだけは分かった。
「水車小屋方面、杖持ちの足元をお願いできるかな」
僕が言うより先に、十ミリ機関銃が鳴った。
重い点射だった。連射というより、鉄の杭を一つずつ打つ音に近い。最初の二発は土を跳ね、三発目が杖持ちの足元を削った。
杖持ちが横へ跳ぶ。
その瞬間、先頭の結界が薄くなった。
やはり、支えている。
「石塀方面、徹甲小銃をお願いします。先頭の右膝。撃ったらすぐ下がってください」
徹甲小銃の音は、機関銃より少なく、砲より近かった。
一発。外れた。
土嚢の手前で火花が散る。二発目。
先頭の男の右膝、その少し下。結界が小さく白く割れ、弾は弾かれた。だが、足は止まった。
止まっただけでいい。
「水車小屋方面、下がってください」
希望が、石を一つ倒した。
「水車小屋、二人とも下がりました。十秒前」
「澄人、赤」
澄人が水車小屋の赤布を倒す。略図の上で、火点が一つ消えた。消えたのではない。
戻した。そう言い換えても、撃ったことは残る。
✶
敵の短銃持ちが撃った。
弾は接続点には来なかった。石塀へ向かった。こちらの徹甲小銃班が下がるはずの道を、細く押さえる射撃だった。
敵も、戻る場所を見ている。
「石塀方面、まだ下がらないでください。二歩右、低い溝へ」
「溝は未整備です」
「知っています。そこしか線が切れません」
通信兵が復唱する。少し遅れて、希望が小さく首を振った。
「石塀、一人、動きが遅いです」
「どっち」
「背の高い方。足、たぶん引っかかってる」
残像だから、今はもう違うかもしれない。
それでも、僕は赤布を倒さなかった。
「土嚢列、煙をお願いします。低く、石塀の後ろだけ」
術式兵が短く詠唱した。接続点の端で、青みのある煙が地面を這う。魔導灯の覆いを半分だけ外し、煙の下に薄い線を作る。
石塀の班が動いた。
敵の先頭も動いた。
速い。
排水溝を越え、石塀までの距離を一気に詰める。右膝を撃たれたはずなのに、踏み込みが浅くならない。HPは少し削れている。STRは落ちていない。
おかしいだろ。
内心だけで言った。
「二番短杭、マギブレイクをお願いします」
下士官がこちらを見た。
「近いです」
「近いから使います」
短杭が起動した。
地面に埋めた小さな術式が、敵の足元で割れる。派手な光はない。魔法の膜だけが、一瞬、布を裂くみたいに乱れた。
先頭の結界が薄くなる。同時に、土嚢列の十ミリが一発だけ撃った。膝ではない。
肩でもない。剣を持つ手の前で、結界が薄く白く濁った。
弾は通らなかった。だが、剣の角度がずれた。
石塀の背の高い兵が、溝へ落ちるように下がった。
「石塀方面、赤を倒してください」
希望が言った。澄人が二本目の赤布を倒す。
火点が二つ消えた。残ったのは、土嚢列だけ。
✶
敵の先頭が、こちらを見た。
距離は百歩を切っている。
ここからなら、相手の顔が見える。顎に古い傷があった。口元は笑っていない。怒ってもいない。
剣を握る手だけが、次の距離を測っている。
向こうも、こちらを仕事として殺しに来ている。
そう見えた。
僕は徹甲小銃を取った。
銃床の刻印が、手袋越しに掌へ当たる。
「准尉」
下士官の声が低くなる。
「最後の火点は残して。僕は火点じゃないから」
言いながら、荷札板の角を親指で押した。
でも、今、僕が撃たなければ、土嚢列が撃つ前に斬られる。
弾倉は三発。一発目で止める。二発目で削る。
三発目は、使わない。そう決める。
決めたところで、戦場はその通りに動かない。
敵が踏み込んだ。
アクセラップではない。もっと内側から来る加速。足元の土が遅れて跳ねた。
僕は真正面を狙わなかった。
結界が厚い場所を撃っても意味がない。
狙ったのは、さっきマギブレイクで乱れた右側。剣を振るために腕を開く、その前の隙間。
撃つ。
反動が肩へ入る。
弾は結界に触れ、白く滑り、弾かれずに少し食い込んだ。
敵の腕が止まる。止まったのは一瞬。
その一瞬で、土嚢列の兵が撃った。二十ミリではない。十ミリ側。短い点射。
敵の杖持ちが、後ろで膝をついた。水車小屋の射撃で逃げた先を、土嚢列から見直していたらしい。
結界が、さらに薄くなる。僕は二発目を込めた。敵の短銃がこちらを向く。
先に撃たれる。その時、澄人が荷札板を投げた。ただの板だ。
弾を止める力はない。けれど、視界の端に動くものが入った。敵の短銃が、ほんの少し板へ吸われる。
僕は撃った。二発目。右膝。
今度は通った。HPの値が、目に見えて落ちる。敵は倒れなかった。
倒れないまま、剣を投げた。剣は僕ではなく、通信具へ向かった。
下士官が僕の肩を押した。押したというより、体ごとぶつかった。剣が通信台の脚を裂き、木片が飛ぶ。
通信兵が受話管を抱えて地面へ落ちた。音が消えた。
消えたのは一瞬だけだった。すぐに、外の重機関銃と砲声が戻ってくる。
✶
敵の先頭は、膝を撃たれてもまだ動いた。STRの表示が落ちない。HPは落ちている。
SANは読めない。読めないものを頼りにしない。僕は三発目を込めなかった。
腰の短剣を抜く。正面から勝つ気はない。
相手は片膝が使いにくい。剣は投げた。結界は薄い。杖持ちは膝をついている。短銃持ちは、澄人の板に一瞬だけ釣られた後、こちらへ銃口を戻している。
土嚢列の兵が、短銃持ちを撃った。
弾は肩に入った。短銃が落ちる。
敵の先頭が、こちらへ来る。
僕は一歩だけ下がり、土嚢列の前ではなく、横へ入った。相手が僕を追えば、土嚢列へ背を向ける。追わなければ、通信具から離れる。
どちらでも、少し遅れる。敵は僕を追った。来る。
顎の傷が見える距離。僕は短剣を振らなかった。左手の結界棒を地面へ突く。
薄い線が立つ。壁ではない。でも、膝を撃たれた相手には、段差になる。
敵の足が引っかかった。倒れない。倒れないが、上体がわずかに前へ流れる。
そこへ、下士官が撃った。徹甲小銃ではない。普通の拳銃だった。近い距離で、結界の薄くなった脇腹へ二発。
HPがさらに落ちた。敵の手が僕の襟を掴んだ。強い。
布が締まる。息が詰まる。
僕は短剣を、相手の手首ではなく、革紐へ入れた。手首を切る力は足りない。革紐なら切れる。
装具が緩む。結界の線が少し乱れる。土嚢列の兵が、最後の点射を入れた。
敵の体が、今度こそ横へ落ちた。落ちた後も、指が動いた。
まだゼロではない。僕は三発目を撃たなかった。
「捕縛してください。近づくのは二人だけで。手を先に押さえてください」
声が、自分のものに聞こえなかった。
下士官が叫ぶ。
兵が動く。
澄人が床に落ちた荷札板を拾おうとして、手を止めた。
「澄人、触らないでください」
「はい」
返事が、少し震えていた。
僕の襟元も、まだ締まっていた。
✶
北東林から来た三人のうち、先頭は捕縛。
杖持ちは負傷して後退。
短銃持ちは肩を撃たれて、護衛に引かれた。
護衛の二人は、水車小屋跡へ入りかけて、引き返した。そこにはもう誰もいない。赤布が倒れているだけだ。
敵は、接続点へ届かなかった。
通信台は壊れた。予備の受話管へつなぎ替えるまで、前線への発信が少し遅れた。通信兵の額には木片の傷。下士官は左腕を押さえている。土嚢列の兵は、弾倉を空にしていた。
損害軽微。
そう書けば、たぶん軽微になる。
僕は書かなかった。
「接続点、襲撃撃退。通信一時低下。負傷三。敵中英雄級一、捕縛。敵支援二、後退」
記録係が復唱する。
「敵中英雄級、一」
その言葉が、室内に残った。英雄級。
土嚢列の外で、敵の短銃が止んだ。予備の受話管に前線の声が戻り、接続点の兵が一人、伏せた姿勢から頭を上げる。
届かせなかった。三つの火点と二本の短杭で、英雄級を接続点の手前へ止めた。
その手応えが胸へ入った後で、捕縛された人間の顎の傷を思い出した。止めた。止めてしまった。
外では、大型突破車の共鳴音がまだ続いている。
橋梁線は終わっていない。
僕は、撃たなかった三発目を弾倉から抜いた。
薬莢ではない。
まだ使っていない弾。
掌に乗せると、重かった。
✶
通信台の陰で、希望が石を布の上に戻していた。
残像を追う指先が、まだ小さく震えている。
「井上さん」
「……大丈夫です。使いすぎただけです」
「使いすぎ、じゃなくて」
言いかけて、続きを飲み込んだ。彼女も同じことを、僕に聞きたいのかもしれない。
「先輩も、その弾、ずっと握ってます」
言われて、掌の重みに気づく。
「離した方がいいか」
「離さなくていいです。……ただ、握ったままにしておくのも、たぶんしんどいので」
彼女はそれだけ言って、震える指先を布の下へ隠した。
僕は弾を、そっと胸ポケットへ収めた。重さは消えなかったけれど、握りしめている必要はなくなった。
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