六章十四話 水音の下に置く刃
《王録》 六章 十四節
『誰しもが願いを持つならば、復讐もまた祈りの似姿である。』
森田さんから連絡が来たのは、夕方だった。
面会室ではなく、詰所の外廊下で待っていた。
煙の匂いがまだ消えていなかった。
「聞きました」
森田さんは、そこで一度だけ息を止めた。
「はい」
僕の返事は、自分でも薄かった。
「三郷くんのことも」
僕は何も言わなかった。
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「……羽黒くん」
森田さんの「なぜ」だけが、軍務の声から外れていた。
「なぜ、まだここにいるの。動員令はあなたを縛っているけど、抜け道はある。私が作れる。それを使えば――」
「使いません」
言い切った。
廊下の外で、水の流れる音がしていた。雨樋から落ちた水が、石の溝を伝っている。
なぜか、分からなかった。
分からないまま、口が動いた。
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「復讐は意味が無い、なんて言いません。意味はあります」
風が外廊下を抜け、濡れた袖の中へ入った。
「誰かを憎めば、怒っている間は動けます。今日みたいな顔をしていても、自分を責めずに済む」
震えた手を、外套の脇へ押しつけた。隠れなかった。
「三郷たちが死んだ理由を、あなた達だけに求めるのは違うと思います。第二王子たちにも、王国にも、帝国にも、それぞれ理由がある。どれも、こっちから見れば最悪ですけど」
森田さんの薄い布手袋は、片方だけ雨で色が濃くなっていた。
「第二夫人にも理由があったのかもしれない。もう死んだ人に、今さら聞けませんけど」
言葉が喉の奥で引っかかった。
飲み込むと、鉄の味がした。
「でも、僕はそんなにできた人間じゃありません。あなた達が憎いです。森田さんが何をしていたとしても、そこは消えません」
森田さんは、目を逸らさなかった。
「そうでしょうね」
謝罪は続かなかった。僕が一歩詰めれば届く距離に、濡れた手袋だけが見えた。
✶
「死んだあいつらが、あなた達を憎んでいても」
雨音が強くなった。
屋根を叩く音で、遠くの声が消える。
「呪っていても。僕たちの気が、どうしても晴れなくても」
剣の重さが、引き出しの中から手のひらに戻ってくる気がした。
三郷の生命は、もう動かない数字だった。精神の方は、あの日から一度も読めていない。読めないまま弔うしかなかった。
あいつら、と言えば楽だった。
三郷。桐谷さん。佐々木くん。横河くん。飯田くん。小泉くん。
口の中で名前を並べると、一人ずつ別の重さになった。まとめて憎む方が、たぶん楽だった。
「復讐で三郷を弔いたくない」
声が少し掠れた。
「三郷たちの死を言い訳にして、誰かを同じ場所へ送るのは嫌です」
森田さんは、しばらく黙っていた。
僕も黙っていた。
水が溝を流れる音だけが残った。
「だから、僕は次の命令を受けます」
復讐ではなく、と続けかけた。舌の裏に鉄の味が戻り、そこで切れた。
「止めるため、だと思います」
「思います、なのね」
「今は、それ以上うまく言えません」
水が石溝の曲がりへ入り、見えなくなった。
「命令書には、足止めと書けます。目的欄も埋められる」
森田さんの声は、軍務の高さへ戻っていた。
「でも、前へ出す人が戻る保証にはならない。今、私が頷いたら、次の命令を渡しやすくなる。あなたが選んだことにして」
「頷かないんですか」
「頷けません」
森田さんは鞄へ手を置いた。中に地図が入っている形が、布越しに浮いていた。
「それでも、命令はあります」
「聞きます」
森田さんは、地図を開かなかった。
「ノエホ地方のゴルペホ橋梁線で、足止め作戦があります。ペクワ工兵隊が橋を残し、ノクスラ班が夜間観測を入れる。あなたたちは、そこへ回される」
僕は作戦名と二つの部隊名を、口の中で一度ずつ繰り返した。
森田さんが去った後も、僕は手を握らなかった。雨樋の水が、石溝に溜まった煤を少しずつ押していた。
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