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ステータス『0』の観測兵 ~クラス転移を離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~  作者: ハルキーノ
第三章 ”自己”

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七章一話 水音のあと

《王録》 七章 一節

『水音の下で、抜かれぬ刃だけが冷えていく。』


 翌朝、第二王城の地図室で、森田さんは地図を開いた。僕は卓を挟んだ向かいに立っていた。


 昨日の外廊下では、地図を出さなかった。あの場で線や地名を並べられていたら、僕はそれを作戦ではなく言い訳として見ただろう。森田さんの鞄には、たぶん折り畳んだ地図が入っていた。


 今でも、少しはそう見える。


 それでも、見ないで済む場所にはもういなかった。



 室内には、乾いた羊皮紙の匂いと油の匂いが混ざっていた。


 壁にかけられた大きな地図には、赤い糸と黒い糸が何本も張られている。卓上には、もっと細かい軍務地図が重ねられ、端を押さえる金属の重しだけが妙に冷たそうに光っていた。


 森田さんは、その中の一枚を選び、折り目を掌で伸ばした。


 薄い手袋の先に、インクの黒が少し移っていた。いつもなら整っている髪も、耳の後ろで一本だけはねている。たぶん、直す時間がなかったのだと思う。


「第二王子殿下は、エザグランマ方面へ動きます」


 声は、昨日より乾いていた。泣いた後の声ではなく、眠っていない人の声に近い。


「私たちがつくんですか」


 聞いた瞬間、森田さんの手元が止まった。迷ったようには見えなかった。ただ、言葉を卓上へ置く前に、一度だけ重さを量ったような間があった。


「いいえ」


 森田さんは細い定規を動かし、殿下側の線から少し離れた場所を押さえた。


「あなたたちは、こちらです。ノエホ地方、ゴルペホ橋梁線」


 昨日の最後に聞いた名前だった。


 地図の上では、定規を少し滑らせるだけで届く。そこへ、横にいた文官が測量表を差し込んだ。


 文官は細い眼鏡をかけていた。鼻当ての跡が赤くなっている。測量表を差し込む手つきだけが速く、声はその後からついてきた。


「地図上の距離をそのまま読まないでください。縮尺補正後で、主移動路から直線約六十キロです」


 六十キロ。


 数字にすると素直だった。素直すぎて、しばらく頭の中で置き場所が決まらない。


 歩いて一日で済む距離ではない。車両でも、道と橋と荷物に縛られる。伝令が往復するだけで、最初の報告が少し古くなる距離だ。


「つまり、直接守るわけじゃない」


「はい」


 森田さんは、言い換えなかった。


「敵主力を、ゴルペホ橋梁線に縛ります。殿下を追わせないために」



 地図の中央を、青い線が曲がっていた。


 川だった。


 その上に古い石橋を示す黒い印があり、周囲には湿地、街道、迂回路、集落の跡を示す小さな文字が並んでいる。文字だけなら、どれも静かなものに見える。


 ただ、そこへ赤い矢印が何本も刺さっていた。


 静かな場所ではない。静かな場所に、これからされるのだ。


「橋は落とさないんですか」


 僕が聞くと、文官の目が一度だけ森田さんへ動いた。答えていいのか確認したのではなく、どこまで言うかを預けた動きだった。


 森田さんは、地図の端を押さえ直してから言った。


「落とせば早い。でも、落とした橋は後で誰かが直さなければなりません。通行権、復旧費、責任印、全部残ります」


「戦争中でも?」


「戦争中だから、です」


 その返事は、卓上の羊皮紙より薄く聞こえたのに、妙に破れなかった。


「橋は残します。渡れる。でも、速くは渡れない。進める。でも、隊列は崩れる。そういう場所にします」


 あまり気持ちのいい作戦ではなかった。


 敵を止めるための作戦ではある。同時に、敵をそこへ呼び込み、動きにくい場所で長く苦しませる作戦でもある。


 戦場を作る、という言い方が一番近い。


 僕は青い線を見ながら、昨日の外廊下で聞いた水音を思い出した。雨樋から落ちた水が、石の溝を伝っていた。水は勝手に流れるのに、人はそこへ橋を架け、印を押し、守る線と捨てる線を決める。


 面倒な生き物だな。


 もちろん、その面倒なものの中に僕もいる。



「ペクワ工兵隊が先に入ります。道路の補修と障害、土嚢、迂回路の誘導。ノクスラ班は夜間観測です。術式標識と魔導灯も入ります。歩兵にはアクセラップ用の小型起動具、術式兵にはマギブレイク用の短杭型機械を最低限。砲兵陣地は主戦場から六から十キロ後方」


 文官が読み上げるたび、卓上に小さな木札が置かれていった。


 彼の袖口には、古い紙の粉がついていた。木札を置く音は小さいのに、置くたびに顎の筋が少し動く。


 工兵、観測、術式、砲兵、救護、補給。


 札が増えるほど、そこに人がいることだけが分かりにくくなる。名前ではなく役割になり、顔ではなく配置になる。必要な処理なのだろう。そうしなければ、誰も全体を見られない。


 でも、全体を見るために、何かを小さく畳んでいる。


「羽黒くん」


 森田さんが僕を見た。


「あなたの位置は、前線ではありません。観測と伝令、撤退線、救護の接続。前線から一・五から三キロ後方です」


「後ろですね」


「後ろです」


 そこも、言い換えなかった。


「ただし、安全ではありません」


 文官が木札を置きかけたまま止まった。森田さんの声が、少し低くなっていた。


「そこを潰されると、火点がばらばらになります。撤退も遅れる。敵が気づけば、あなたのいる場所を狙います」


 狙います。


 その言葉だけが、地図室の中で生々しかった。


 僕が戦う理由は昨日言った。けれど、戦う場所は線と縮尺で決まり、そこで靴を濡らす人の名前は地図に載らない。


 重しへ触れた指が冷えた。手を離しても、しばらく感覚が戻らなかった。



「殿下側の移動に必要な時間は」


 僕が聞くと、文官が少し眉を動かした。質問の順番が、たぶん彼の用意した説明と違ったのだと思う。


 森田さんは驚かなかった。


「最低半日。できれば一日」


「一日」


「はい」


 森田さんの定規が、エザグランマ方面の線で止まった。


「ゴルペホを抜かれれば、敵は半日から一日遅れで、この線へ圧力をかけられます。逆に言えば、こちらが一日縛れば、殿下側は追撃の一番危ない距離から外れる」


 勝つ、とは言わなかった。


 敵を倒す、とも言わなかった。


 六十キロ離れた場所で、一日を買う。そのために橋を残し、人を置き、敵が通りたくなる線をわざと見せる。


 分かった、と言えば嘘になる。


 でも、何をしようとしているのかは分かった。


「行きます」


 森田さんが、ほんの少し息を吸った。


「ありがとうございます」


「礼は違います」


 言葉が早く出たせいで、自分でも少し驚いた。


 森田さんの手が止まる。文官は木札を持ったまま、測量表を閉じた。


「僕は、森田さんを許したわけじゃありません」


「はい」


「第二王子を守りたいから行くわけでも、王国のために立派なことをしたいわけでもないです」


 地図室の外で、誰かが荷箱を運んでいた。木が床に当たる音が、少し遅れて、もう一度響く。


「そこを抜けたら、また誰かが死ぬ。それを止めに行くだけです」


 森田さんは、すぐには頷かなかった。


 少し間を置いてから、地図の上へ重しを戻した。端が浮かないようにする、ごく普通の動作だった。


「承知しました。命令書には、その理由は書きません」


 地図の上には、青い川と、黒い橋と、赤い矢印が残っている。三郷の名前は、どこにも書かれていない。


 地図を閉じる前に、僕は橋までの距離だけを手帳へ写した。


――――――――


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